2011年11月15日
武道修行と日常生活
以前私は、「武道修行の心持ち(意識の持ち方)」という題名にて記事を投稿させていただきました。
本日もこの題の第二を投稿させていただきます。
練習場,道場においての稽古中の態度や振る舞いなどの所作と尊い言動が、そこを一歩出た後の、日常における生活態度や発する言葉に食い違いが往々にして起きています。何故でしょうか。
武術の鍛錬,稽古を長年繰り返し行っていきますとその技に精通し、その技に対しては、そこそこの技量を持つこととなり、また、長年の実績から組織団体の中で重要な位置を占め、「先生」と呼ばれ他に対する影響力をも持つようになってきます。
さて、武道修行は「技」の鍛錬ばかりではない、ことをこれら先生と呼ばれる方々の中で何人が自覚なさっていますでしょうか。
往々にして、自分が稽古をしてきた「技」だけを、集まってきた人達に対して教えるだけが先行してしまいがちではないでしょうか。
これでは、自分と同じ動作を行う者が出来ますが、そこには「魂」の存在が確認できません。
「武道」です。「道」です。
「武術」の稽古ではない筈です。
矢張り、武としての技術修得に合せて、「道」を同時並行的に参集し修行する人達を感化していく必要性があるのではないでしょうか。
この「技」の修行と合せた「魂」の教化が「道」を歩み始めた人達の「指針」となってくる筈です。
武の鍛錬には技の正確性を学ぶことと同時に大切なことは、道場内における「武」修行者としての態度も、求められてくるのではないのでしょうか。
そして、道場内で培った態度,所作又は言動、これらが矢張り日常生活にごくごく自然に、自覚しない中で体現されてこそ「武」修行者といえるのではないのでしょうか。
道場から一歩外に出ても、道場内での「道」の修行が滲み出てくるような、そのような日常生活を送りたいものですし、そのことが出来てはじめて「武道」を鍛錬している自覚というものが実感できるものではないのでしょうか。
この様な気持ちを心に持ちながら、日々の鍛錬に精を出しています。
ごくごく自然体で。水の流れる如く。
流れに逆らわずに、浮き草のように流れに身を任せ。
力を入れず、程ほどの力量にて。
そして、一歩一歩前進あるのみです。自分の探す「道」を求めて歩み続けるだけです。
本日もこの題の第二を投稿させていただきます。
練習場,道場においての稽古中の態度や振る舞いなどの所作と尊い言動が、そこを一歩出た後の、日常における生活態度や発する言葉に食い違いが往々にして起きています。何故でしょうか。
武術の鍛錬,稽古を長年繰り返し行っていきますとその技に精通し、その技に対しては、そこそこの技量を持つこととなり、また、長年の実績から組織団体の中で重要な位置を占め、「先生」と呼ばれ他に対する影響力をも持つようになってきます。
さて、武道修行は「技」の鍛錬ばかりではない、ことをこれら先生と呼ばれる方々の中で何人が自覚なさっていますでしょうか。
往々にして、自分が稽古をしてきた「技」だけを、集まってきた人達に対して教えるだけが先行してしまいがちではないでしょうか。
これでは、自分と同じ動作を行う者が出来ますが、そこには「魂」の存在が確認できません。
「武道」です。「道」です。
「武術」の稽古ではない筈です。
矢張り、武としての技術修得に合せて、「道」を同時並行的に参集し修行する人達を感化していく必要性があるのではないでしょうか。
この「技」の修行と合せた「魂」の教化が「道」を歩み始めた人達の「指針」となってくる筈です。
武の鍛錬には技の正確性を学ぶことと同時に大切なことは、道場内における「武」修行者としての態度も、求められてくるのではないのでしょうか。
そして、道場内で培った態度,所作又は言動、これらが矢張り日常生活にごくごく自然に、自覚しない中で体現されてこそ「武」修行者といえるのではないのでしょうか。
道場から一歩外に出ても、道場内での「道」の修行が滲み出てくるような、そのような日常生活を送りたいものですし、そのことが出来てはじめて「武道」を鍛錬している自覚というものが実感できるものではないのでしょうか。
この様な気持ちを心に持ちながら、日々の鍛錬に精を出しています。
ごくごく自然体で。水の流れる如く。
流れに逆らわずに、浮き草のように流れに身を任せ。
力を入れず、程ほどの力量にて。
そして、一歩一歩前進あるのみです。自分の探す「道」を求めて歩み続けるだけです。
Posted by 阿羅漢 at
15:02
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