2011年09月18日
制定居合 九本目「添え手突き」(そえてづき)
「添え手突き」は、立ち技の五本目になります。制定居合の術技も残り四本となってきました。
では、居合道術技「九本目・添え手突き」をご紹介してまいります。
一本目 「前」 の敵に対しての技。居合の全てがこの技に凝縮されています。
二本目は、「後ろ」 の敵を想定した技です。
三本目は、「受け流し」 敵を左に想定しての技です。
四本目「柄当て」 居合腰から前後の敵を制する技です。
五本目「袈裟切り」 立ち技になります。
逆袈裟に切り上げ、返す刀で袈裟に切り下ろす技です。
六本目「諸手突き太>」(もろてづき) 前後三人の敵を想定しての術技です。
七本目「三方切り」(さんぽうぎり) 前と左右の敵を想定しての術技です。
八本目「顔面当て」(がんめんあて) 前後二人の敵を想定しての術技です。
九本目「添え手突き」(そえてづき) 平行に歩行しています敵を想定して
の術技です。
〔要義〕
前進中、左の敵の殺気を感じ、機先を制して右袈裟に抜き打ちし、さらに、腹部を添え手で突き刺して勝つ。
(動作)
1、右足より正面に向って前進し、左足を踏み出したとき、左
の敵に振り向くと同時に刀に両手をかける。続いて踏み出
した右足を軸にして敵に向き直りながら左足を引くと同時に
上体を左に開いて敵の右肩口から左脇腹まで「袈裟に抜き
打ちする」。
2、右足をやや外側に向けてわずかに引いて「添え手突きの
構え」となり、間をおくことなく左足を踏み込むと同時に敵の
腹部を「突き刺す」。
3、左手の位置を動かさすことなく、刀を引き抜きながら刃先
を前下に向け、右こぶしを右乳前方におくって「構え」、残
心を示す。
4、左手を刀身からはなして鯉口を握り、左足を引くと同時に
刃先の向きにそって「右に開いての血振り」をする。
5、そのままの姿勢で「納刀」する。
6、後ろ足を前足にそろえ、右手を柄からはなして「帯刀姿
勢」となり、左足より退いて元の位置にもどる。
これが、九本目「添え手突き」です。
今回の敵の想定は、同時並列に同じ方向に動いていますことを条件としています。
居合の練習をしていて感じることですが、敵はあくまでも「仮想敵」です。しかし大切なことの一つは、いち早く敵の殺気を感じとる(柄に手をかけるなどの動作)ことにあるかと思います。
仮想敵の殺気を感じる訓練は、普段の練習において培っていくしか方法はないかと思います。
道場において何気なく練習をするのではなく、常に相手を意識したうえで練習をしていきますと、機先を制しての抜き付けも可能となってくるかと思います。
また、木刀で術技を練習するのも一つの方法ではないかと思います。刀で切りかかられますと、いい気持ちはしないものですが、木刀での相対練習であれば、さほどの恐怖感も出てこないと思います。
こうして訓練を重ねたうえで、徐々に刀で組んでの練習に移行していきますと、より以上の仮想敵の実感が想定されてくるのではないでしょうか。
今回の術技で大切なことは、『続いて踏み出した右足を軸にして敵に向き直りながら』の時に、左右の足の前足底を軸にして左へ回ることと、次の、『左足を引くと同時に上体を左に開いて敵の右肩口から左脇腹まで「袈裟に抜き打ちする」。』この時、上体を早く引き過ぎますと、敵に刀が充分に届かないままに、袈裟切りを行うこととなりますので、体の捌きを充分に研究する必要があるかと思います。
最後に、本日もいつもの言葉です、
『居合道は「演舞」ではありません。常に仮想敵を意識し反復練習あるのみです。いい汗は流した分だけ結果に反映されてきます。それが、動作や所作また全体の姿や形に現れてきます。練習は嘘はつきません。』
今日は九本目「添え手突き」(そえてづき)でした。
次回は、十本目「四方切り」(しほうぎり)です。
では、居合道術技「九本目・添え手突き」をご紹介してまいります。
一本目 「前」 の敵に対しての技。居合の全てがこの技に凝縮されています。
二本目は、「後ろ」 の敵を想定した技です。
三本目は、「受け流し」 敵を左に想定しての技です。
四本目「柄当て」 居合腰から前後の敵を制する技です。
五本目「袈裟切り」 立ち技になります。
逆袈裟に切り上げ、返す刀で袈裟に切り下ろす技です。
六本目「諸手突き太>」(もろてづき) 前後三人の敵を想定しての術技です。
七本目「三方切り」(さんぽうぎり) 前と左右の敵を想定しての術技です。
八本目「顔面当て」(がんめんあて) 前後二人の敵を想定しての術技です。
九本目「添え手突き」(そえてづき) 平行に歩行しています敵を想定して
の術技です。
〔要義〕
前進中、左の敵の殺気を感じ、機先を制して右袈裟に抜き打ちし、さらに、腹部を添え手で突き刺して勝つ。
(動作)
1、右足より正面に向って前進し、左足を踏み出したとき、左
の敵に振り向くと同時に刀に両手をかける。続いて踏み出
した右足を軸にして敵に向き直りながら左足を引くと同時に
上体を左に開いて敵の右肩口から左脇腹まで「袈裟に抜き
打ちする」。
2、右足をやや外側に向けてわずかに引いて「添え手突きの
構え」となり、間をおくことなく左足を踏み込むと同時に敵の
腹部を「突き刺す」。
3、左手の位置を動かさすことなく、刀を引き抜きながら刃先
を前下に向け、右こぶしを右乳前方におくって「構え」、残
心を示す。
4、左手を刀身からはなして鯉口を握り、左足を引くと同時に
刃先の向きにそって「右に開いての血振り」をする。
5、そのままの姿勢で「納刀」する。
6、後ろ足を前足にそろえ、右手を柄からはなして「帯刀姿
勢」となり、左足より退いて元の位置にもどる。
これが、九本目「添え手突き」です。
今回の敵の想定は、同時並列に同じ方向に動いていますことを条件としています。
居合の練習をしていて感じることですが、敵はあくまでも「仮想敵」です。しかし大切なことの一つは、いち早く敵の殺気を感じとる(柄に手をかけるなどの動作)ことにあるかと思います。
仮想敵の殺気を感じる訓練は、普段の練習において培っていくしか方法はないかと思います。
道場において何気なく練習をするのではなく、常に相手を意識したうえで練習をしていきますと、機先を制しての抜き付けも可能となってくるかと思います。
また、木刀で術技を練習するのも一つの方法ではないかと思います。刀で切りかかられますと、いい気持ちはしないものですが、木刀での相対練習であれば、さほどの恐怖感も出てこないと思います。
こうして訓練を重ねたうえで、徐々に刀で組んでの練習に移行していきますと、より以上の仮想敵の実感が想定されてくるのではないでしょうか。
今回の術技で大切なことは、『続いて踏み出した右足を軸にして敵に向き直りながら』の時に、左右の足の前足底を軸にして左へ回ることと、次の、『左足を引くと同時に上体を左に開いて敵の右肩口から左脇腹まで「袈裟に抜き打ちする」。』この時、上体を早く引き過ぎますと、敵に刀が充分に届かないままに、袈裟切りを行うこととなりますので、体の捌きを充分に研究する必要があるかと思います。
最後に、本日もいつもの言葉です、
『居合道は「演舞」ではありません。常に仮想敵を意識し反復練習あるのみです。いい汗は流した分だけ結果に反映されてきます。それが、動作や所作また全体の姿や形に現れてきます。練習は嘘はつきません。』
今日は九本目「添え手突き」(そえてづき)でした。
次回は、十本目「四方切り」(しほうぎり)です。
タグ :道
Posted by 阿羅漢 at
16:34
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2011年09月15日
道を求めて
道を求めて今、歩んでいます。
はじめの一歩から長い行程の間は、本当に単独「一人旅」でした。
でも、ここ数ヶ月に景色の変化と共に、私の歩む姿を見て、私に寄り添って同調してくれます、道連れが出てきてくれるようになってきました。
今まで広い異国の地において、「道」をどのように探し求め、進んでいけばいいのか、本当に手探りの、闇夜の中に弓矢を放って、見えざる敵を射落とす感じの行動理念の繰り返しでしたが、最近は、一つの光明を感じることが出来、それに向かって邁進をしています。
思い起こしますと、8月に「コンケーン大学」での「日本文化の紹介」及び「日本武道の紹介」を切っ掛けとして、好回転に変じてきたように思えます。大学という特定の領域に佇み、そして、直接、若い学生達の熱気溢れる姿や行動を、久し振りに身近に感じることが出来、40年以上の時を超えて、自分も学生時代に戻ったような錯覚を感じさせてくれました。
今思うことですが、あの時こうしていれば、今こうなっていたかもしれない、「求める道」も今の様な茨の道ではなく、もっと平坦な穏やかな道が求められていたのかもしれない、などと空想してしまいます。
しかし、私にとっての「道」はこれしかないのである、と何時もその後に現実に引き返します。
自分で選んだ「道」であり、自分から飛び込んだ「道」であるから、決して後悔はせず、必要以上に後ろを振り返らずに、一歩一歩確実に歩んでいこうと再決意を常に心に誓っています。
特に、一緒に歩んでみたいという方が出てきましたいじょう、その方達が歩調を合せ易いように、自分の歩みを調整し常に同行者の姿や形を目に止めて、道に迷わないように気と心を配り、一筋の光明を点しつつ私自身切磋琢磨しながら、工夫,吟味,鍛錬を常日頃から心がけていきたいと思っています。
楽しい旅です。宜しかったら「同行」しませんか。旅は道連れ、世は情け。(情け知らずが最近は多いようでが。)
一人旅よりは二人旅、そして、三人旅、宜しかったら皆でワイワイがやがやと「道」を求めて旅をしてみませんか。
はじめの一歩から長い行程の間は、本当に単独「一人旅」でした。
でも、ここ数ヶ月に景色の変化と共に、私の歩む姿を見て、私に寄り添って同調してくれます、道連れが出てきてくれるようになってきました。
今まで広い異国の地において、「道」をどのように探し求め、進んでいけばいいのか、本当に手探りの、闇夜の中に弓矢を放って、見えざる敵を射落とす感じの行動理念の繰り返しでしたが、最近は、一つの光明を感じることが出来、それに向かって邁進をしています。
思い起こしますと、8月に「コンケーン大学」での「日本文化の紹介」及び「日本武道の紹介」を切っ掛けとして、好回転に変じてきたように思えます。大学という特定の領域に佇み、そして、直接、若い学生達の熱気溢れる姿や行動を、久し振りに身近に感じることが出来、40年以上の時を超えて、自分も学生時代に戻ったような錯覚を感じさせてくれました。
今思うことですが、あの時こうしていれば、今こうなっていたかもしれない、「求める道」も今の様な茨の道ではなく、もっと平坦な穏やかな道が求められていたのかもしれない、などと空想してしまいます。
しかし、私にとっての「道」はこれしかないのである、と何時もその後に現実に引き返します。
自分で選んだ「道」であり、自分から飛び込んだ「道」であるから、決して後悔はせず、必要以上に後ろを振り返らずに、一歩一歩確実に歩んでいこうと再決意を常に心に誓っています。
特に、一緒に歩んでみたいという方が出てきましたいじょう、その方達が歩調を合せ易いように、自分の歩みを調整し常に同行者の姿や形を目に止めて、道に迷わないように気と心を配り、一筋の光明を点しつつ私自身切磋琢磨しながら、工夫,吟味,鍛錬を常日頃から心がけていきたいと思っています。
楽しい旅です。宜しかったら「同行」しませんか。旅は道連れ、世は情け。(情け知らずが最近は多いようでが。)
一人旅よりは二人旅、そして、三人旅、宜しかったら皆でワイワイがやがやと「道」を求めて旅をしてみませんか。
タグ :道
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15:34
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2011年09月08日
剣道のオリンピック競技化
私は、武道を修行していますが、「剣道」については中学・高校の数年の修行しか積んでいませんので、未だ初段止まりです。剣道の技等に関しまして私ごときが、どうのこうのを言える立場にはありませんが、しかし、同じ武道を修行しています者として、あえて言わせていただきたく記事を投稿いたします。ご了承ください。
先日こんな記事を読みました。「剣道のオリンピック競技化」を、積極的に推し進めている(国がある)という事実があるということです。
オリンピックに組み込むには多くの問題点があります。その前に、日本の伝統的な「武道」を一般的な単に優劣だけを競う、争いごとの競技と同じ土俵上に載せていいものかどうか、の議論があるかと思いますが如何でしょうか。
競技の中の陸上競技をみてみたいと思います。単純に他人と速さだけを競い合い、レイコンマ何秒単位で他人を押しのけた人が勝つ。
単純かつ明快な勝負事です。当たり前ですが、そこには日本武道の「精神性の欠片」も見出す事は出来ません。
今の世の中、ただ単純に勝つか負けるかの「勝負」に拘るきらいが、多過ぎるのではないでしょうか。
記事の中で目を引きましたのが、「剣道のオリンピック競技化」で問題になる点の解決策として「競技化」を積極的に推し進めている国が考えている事の一つが、「フェンシング」と同じ方式の採用ですって。
そうです、勝負の判定が難しい剣道の世界です。
籠手を打ちました。三人の審判員の内の一人だけが「白旗」を揚げましたが、後の二人は認めていません。面を打ちました、同じ結果です。
剣道は、ご承知のとおり「気・剣・体」の一致をみませんと「一本」という事にはなりません。この複雑な判定を競技化するための第一段階の方法を、「電光掲示」するとの事でした。
益々日本の武道(礼儀や精神の鍛錬等の修行)からかけ離れていく感がいたします。
剣道を、ただ単純な「勝負」だけの競技化にしてしまってもでいいのでしょうか。この流れがチョロチョロの小川の内に堰き止めて、川干ししてしまい埋めて流れを永遠に止めてしまうのか、それとも、大河となり押し流されるのを待つのか、どちらが日本武道としては正しい判断でしょうか。
オリンピック競技化を期待する動きもあるように記事には書いてあります。(ここでは今日は取り上げません。)
この「オリンピック競技化」を目論んでいますのは、正に、朝鮮です。朝鮮の陰謀と自国の歴史捏造の絡みから「オリンピック競技化」を推し進めています。
これには、朝鮮としては過去にテコンドーのオリンピック種目登録の実績がありますので、その轍を踏まえて二重三重の詐称を繰り返し行ってくることは間違いありません。
しかし、テコンドーと剣道とではまるっきり「武道」の本筋が違います。
如何でしょう日本人の皆さん、特に、日本武道を練習している皆さん、今こそ「大同団結」の時です。朝鮮の横暴をこれ以上増長させないためにも、力を結集して断固反論しようではありませんか。
永い伝統と栄えある歴史に輝ける「大和民族」の力をみせる時は今です。「時は今。」です。
先日こんな記事を読みました。「剣道のオリンピック競技化」を、積極的に推し進めている(国がある)という事実があるということです。
オリンピックに組み込むには多くの問題点があります。その前に、日本の伝統的な「武道」を一般的な単に優劣だけを競う、争いごとの競技と同じ土俵上に載せていいものかどうか、の議論があるかと思いますが如何でしょうか。
競技の中の陸上競技をみてみたいと思います。単純に他人と速さだけを競い合い、レイコンマ何秒単位で他人を押しのけた人が勝つ。
単純かつ明快な勝負事です。当たり前ですが、そこには日本武道の「精神性の欠片」も見出す事は出来ません。
今の世の中、ただ単純に勝つか負けるかの「勝負」に拘るきらいが、多過ぎるのではないでしょうか。
記事の中で目を引きましたのが、「剣道のオリンピック競技化」で問題になる点の解決策として「競技化」を積極的に推し進めている国が考えている事の一つが、「フェンシング」と同じ方式の採用ですって。
そうです、勝負の判定が難しい剣道の世界です。
籠手を打ちました。三人の審判員の内の一人だけが「白旗」を揚げましたが、後の二人は認めていません。面を打ちました、同じ結果です。
剣道は、ご承知のとおり「気・剣・体」の一致をみませんと「一本」という事にはなりません。この複雑な判定を競技化するための第一段階の方法を、「電光掲示」するとの事でした。
益々日本の武道(礼儀や精神の鍛錬等の修行)からかけ離れていく感がいたします。
剣道を、ただ単純な「勝負」だけの競技化にしてしまってもでいいのでしょうか。この流れがチョロチョロの小川の内に堰き止めて、川干ししてしまい埋めて流れを永遠に止めてしまうのか、それとも、大河となり押し流されるのを待つのか、どちらが日本武道としては正しい判断でしょうか。
オリンピック競技化を期待する動きもあるように記事には書いてあります。(ここでは今日は取り上げません。)
この「オリンピック競技化」を目論んでいますのは、正に、朝鮮です。朝鮮の陰謀と自国の歴史捏造の絡みから「オリンピック競技化」を推し進めています。
これには、朝鮮としては過去にテコンドーのオリンピック種目登録の実績がありますので、その轍を踏まえて二重三重の詐称を繰り返し行ってくることは間違いありません。
しかし、テコンドーと剣道とではまるっきり「武道」の本筋が違います。
如何でしょう日本人の皆さん、特に、日本武道を練習している皆さん、今こそ「大同団結」の時です。朝鮮の横暴をこれ以上増長させないためにも、力を結集して断固反論しようではありませんか。
永い伝統と栄えある歴史に輝ける「大和民族」の力をみせる時は今です。「時は今。」です。
タグ :剣道
Posted by 阿羅漢 at
01:21
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2011年09月08日
武道修行(道を求めて)「終わりのない道程」
武道修行に終わりというものがあるのだろうか。
ないであろう。
というのは、例えば、一つの技をつきつめればつきつめていくほどに、道がどんどんと開けていき、奥が深くなっていき、次から次へと課題や問題が山積してきて、決して納得のいける技とはいえなくなってきます。
また、初歩段階で納得した技も、修行してきますと、同じ技を行ってみても、とても満足できない技になってきていることに気がつきます。
今、未だ「杖道」と「居合道」はどちらも、修行の道の本当に第一歩を踏み出したばかりの初心者ですが、少林寺拳法は何とか年数だけは過ぎ去っています。
少林寺拳法の技に例えてみますと、「逆小手」という技が「柔法」の龍華拳の中にあります。
この技は級拳士の時に初めは、鉤手守法から入り、次に、投げを打っていきますが、級拳士の時の、「逆小手」と、三段を取得してからの技では、自ずから冴えや、また、決めに違いが出てきて当然です。
固め技も、最初は、前指固を使って相手を制しますが、同じ様に上の段にいきますと、裏固を使用し裏三枚から肩を攻め、息が出来ないくらいの決め技を駆使していきます。
また、初心拳士には出来ない「逆小手」の変化技もやるようになってきます。
これは柔法の一つの例ですが、同じ様な事が「剛法」の中にも出てきます。
仁王拳の中に流水蹴という技があります。この技は、初心者の初心者が行う技でして、単純に相手の上段直突を後ろに避けるか、斜め前に避けるかの違いですが、その後に、後ろに下がった場合は順蹴りを、斜めに体を捌いた場合は逆蹴り(廻し蹴り)を行っていくだけです。
この技の変化ではないですが、上の段にいきますと攻撃は、上段直突と、中段逆突の二連突を行い、守者は、これを上受け、すかさず、内受け下受けの二連受けを同時に行い、順蹴りを蹴って反攻していきます。
この技は、天王拳「突天一」という技になります。
この様に、最初に習った単純な技から、その道に染まっていく(帯の色の変化。白い「純真無垢」から、黒い色へと染まっていく。)につれて、高度な技術を学んでいくようになり、自然と体もその変化に慣れてきてしまうのも、練習の賜物ではないでしょうか。
今、騒然とした世の中です。家に居ても何が起こるかわかりませんが、一歩外へ足を踏み出しますと、何事が起こるか判らない世の中になっています。特に、タイ国は、米国と同じ様に「銃器」の取扱についてはそんなにやかましい規制、厳しい罰則がないように感じています。
といいますのは、「薬物」絡みのニュ-スがテレビに流れますと、必ずといっていいほどに薬物と並べられて、短銃と自動小銃が数丁は没収されています。
タイの服装を見てみますと、シャツをズボンの外に出して(日本では「だらしがない」と怒られていましたが。)着ています。タイでは当たり前の着方です。暑い気候のせいかどうかは解りませんが、誰もが行っている服の着方です。
以前私が、シャツを中に入れて日本でのいつものとおり着ていましたら妻が、「田舎くさい」と言っていました。(文化の違い。生活習慣の違いでしょうか)
この服装も問題です。腰に何を挟んでいるか見当が付きません、全員が何か持っているということは考えられない事ですが、日本ですと、凶器は「バック等」の中に忍び込ませて持ち運びますが、タイは体に密着した形で持ち運んでいても、決して不思議ではありません。
少林寺拳法の管長先生が「ご法話」の中でこのような事を、お話されていたことを思い出します。
「何時も、ボケ-ッとしていてはいけないのです。常に危機管理を念頭において行動してください。それには、今、自分がどのような状態に居て、周りの状態がどうなっているか、そしてこの様になった時には、どう対処するかを何時も頭の片隅に入れて行動してください。(八方目)大切です。」
と、このようなお話をされていた事を思い出しました。
何時如何なる場合であっても、自分のおかれている立場や環境を適切に把握しておき、咄嗟の危機には悠然と、そして即、対応が可能な体制と心構えを日常的に行っておけば「備えあれば憂いなし。」は間違いなしであると確信しています。
それには、常日頃の武道の鍛錬が不可欠な要素であると思っています。反射神経の訓練や、不撓不屈の精神力を養うには、一歩一歩の努力が大切であると思っています。
武道修行の道は果てしない「生涯」の「旅」です。でも、楽しい旅です。
ないであろう。
というのは、例えば、一つの技をつきつめればつきつめていくほどに、道がどんどんと開けていき、奥が深くなっていき、次から次へと課題や問題が山積してきて、決して納得のいける技とはいえなくなってきます。
また、初歩段階で納得した技も、修行してきますと、同じ技を行ってみても、とても満足できない技になってきていることに気がつきます。
今、未だ「杖道」と「居合道」はどちらも、修行の道の本当に第一歩を踏み出したばかりの初心者ですが、少林寺拳法は何とか年数だけは過ぎ去っています。
少林寺拳法の技に例えてみますと、「逆小手」という技が「柔法」の龍華拳の中にあります。
この技は級拳士の時に初めは、鉤手守法から入り、次に、投げを打っていきますが、級拳士の時の、「逆小手」と、三段を取得してからの技では、自ずから冴えや、また、決めに違いが出てきて当然です。
固め技も、最初は、前指固を使って相手を制しますが、同じ様に上の段にいきますと、裏固を使用し裏三枚から肩を攻め、息が出来ないくらいの決め技を駆使していきます。
また、初心拳士には出来ない「逆小手」の変化技もやるようになってきます。
これは柔法の一つの例ですが、同じ様な事が「剛法」の中にも出てきます。
仁王拳の中に流水蹴という技があります。この技は、初心者の初心者が行う技でして、単純に相手の上段直突を後ろに避けるか、斜め前に避けるかの違いですが、その後に、後ろに下がった場合は順蹴りを、斜めに体を捌いた場合は逆蹴り(廻し蹴り)を行っていくだけです。
この技の変化ではないですが、上の段にいきますと攻撃は、上段直突と、中段逆突の二連突を行い、守者は、これを上受け、すかさず、内受け下受けの二連受けを同時に行い、順蹴りを蹴って反攻していきます。
この技は、天王拳「突天一」という技になります。
この様に、最初に習った単純な技から、その道に染まっていく(帯の色の変化。白い「純真無垢」から、黒い色へと染まっていく。)につれて、高度な技術を学んでいくようになり、自然と体もその変化に慣れてきてしまうのも、練習の賜物ではないでしょうか。
今、騒然とした世の中です。家に居ても何が起こるかわかりませんが、一歩外へ足を踏み出しますと、何事が起こるか判らない世の中になっています。特に、タイ国は、米国と同じ様に「銃器」の取扱についてはそんなにやかましい規制、厳しい罰則がないように感じています。
といいますのは、「薬物」絡みのニュ-スがテレビに流れますと、必ずといっていいほどに薬物と並べられて、短銃と自動小銃が数丁は没収されています。
タイの服装を見てみますと、シャツをズボンの外に出して(日本では「だらしがない」と怒られていましたが。)着ています。タイでは当たり前の着方です。暑い気候のせいかどうかは解りませんが、誰もが行っている服の着方です。
以前私が、シャツを中に入れて日本でのいつものとおり着ていましたら妻が、「田舎くさい」と言っていました。(文化の違い。生活習慣の違いでしょうか)
この服装も問題です。腰に何を挟んでいるか見当が付きません、全員が何か持っているということは考えられない事ですが、日本ですと、凶器は「バック等」の中に忍び込ませて持ち運びますが、タイは体に密着した形で持ち運んでいても、決して不思議ではありません。
少林寺拳法の管長先生が「ご法話」の中でこのような事を、お話されていたことを思い出します。
「何時も、ボケ-ッとしていてはいけないのです。常に危機管理を念頭において行動してください。それには、今、自分がどのような状態に居て、周りの状態がどうなっているか、そしてこの様になった時には、どう対処するかを何時も頭の片隅に入れて行動してください。(八方目)大切です。」
と、このようなお話をされていた事を思い出しました。
何時如何なる場合であっても、自分のおかれている立場や環境を適切に把握しておき、咄嗟の危機には悠然と、そして即、対応が可能な体制と心構えを日常的に行っておけば「備えあれば憂いなし。」は間違いなしであると確信しています。
それには、常日頃の武道の鍛錬が不可欠な要素であると思っています。反射神経の訓練や、不撓不屈の精神力を養うには、一歩一歩の努力が大切であると思っています。
武道修行の道は果てしない「生涯」の「旅」です。でも、楽しい旅です。
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