2011年09月08日
剣道のオリンピック競技化
私は、武道を修行していますが、「剣道」については中学・高校の数年の修行しか積んでいませんので、未だ初段止まりです。剣道の技等に関しまして私ごときが、どうのこうのを言える立場にはありませんが、しかし、同じ武道を修行しています者として、あえて言わせていただきたく記事を投稿いたします。ご了承ください。
先日こんな記事を読みました。「剣道のオリンピック競技化」を、積極的に推し進めている(国がある)という事実があるということです。
オリンピックに組み込むには多くの問題点があります。その前に、日本の伝統的な「武道」を一般的な単に優劣だけを競う、争いごとの競技と同じ土俵上に載せていいものかどうか、の議論があるかと思いますが如何でしょうか。
競技の中の陸上競技をみてみたいと思います。単純に他人と速さだけを競い合い、レイコンマ何秒単位で他人を押しのけた人が勝つ。
単純かつ明快な勝負事です。当たり前ですが、そこには日本武道の「精神性の欠片」も見出す事は出来ません。
今の世の中、ただ単純に勝つか負けるかの「勝負」に拘るきらいが、多過ぎるのではないでしょうか。
記事の中で目を引きましたのが、「剣道のオリンピック競技化」で問題になる点の解決策として「競技化」を積極的に推し進めている国が考えている事の一つが、「フェンシング」と同じ方式の採用ですって。
そうです、勝負の判定が難しい剣道の世界です。
籠手を打ちました。三人の審判員の内の一人だけが「白旗」を揚げましたが、後の二人は認めていません。面を打ちました、同じ結果です。
剣道は、ご承知のとおり「気・剣・体」の一致をみませんと「一本」という事にはなりません。この複雑な判定を競技化するための第一段階の方法を、「電光掲示」するとの事でした。
益々日本の武道(礼儀や精神の鍛錬等の修行)からかけ離れていく感がいたします。
剣道を、ただ単純な「勝負」だけの競技化にしてしまってもでいいのでしょうか。この流れがチョロチョロの小川の内に堰き止めて、川干ししてしまい埋めて流れを永遠に止めてしまうのか、それとも、大河となり押し流されるのを待つのか、どちらが日本武道としては正しい判断でしょうか。
オリンピック競技化を期待する動きもあるように記事には書いてあります。(ここでは今日は取り上げません。)
この「オリンピック競技化」を目論んでいますのは、正に、朝鮮です。朝鮮の陰謀と自国の歴史捏造の絡みから「オリンピック競技化」を推し進めています。
これには、朝鮮としては過去にテコンドーのオリンピック種目登録の実績がありますので、その轍を踏まえて二重三重の詐称を繰り返し行ってくることは間違いありません。
しかし、テコンドーと剣道とではまるっきり「武道」の本筋が違います。
如何でしょう日本人の皆さん、特に、日本武道を練習している皆さん、今こそ「大同団結」の時です。朝鮮の横暴をこれ以上増長させないためにも、力を結集して断固反論しようではありませんか。
永い伝統と栄えある歴史に輝ける「大和民族」の力をみせる時は今です。「時は今。」です。
先日こんな記事を読みました。「剣道のオリンピック競技化」を、積極的に推し進めている(国がある)という事実があるということです。
オリンピックに組み込むには多くの問題点があります。その前に、日本の伝統的な「武道」を一般的な単に優劣だけを競う、争いごとの競技と同じ土俵上に載せていいものかどうか、の議論があるかと思いますが如何でしょうか。
競技の中の陸上競技をみてみたいと思います。単純に他人と速さだけを競い合い、レイコンマ何秒単位で他人を押しのけた人が勝つ。
単純かつ明快な勝負事です。当たり前ですが、そこには日本武道の「精神性の欠片」も見出す事は出来ません。
今の世の中、ただ単純に勝つか負けるかの「勝負」に拘るきらいが、多過ぎるのではないでしょうか。
記事の中で目を引きましたのが、「剣道のオリンピック競技化」で問題になる点の解決策として「競技化」を積極的に推し進めている国が考えている事の一つが、「フェンシング」と同じ方式の採用ですって。
そうです、勝負の判定が難しい剣道の世界です。
籠手を打ちました。三人の審判員の内の一人だけが「白旗」を揚げましたが、後の二人は認めていません。面を打ちました、同じ結果です。
剣道は、ご承知のとおり「気・剣・体」の一致をみませんと「一本」という事にはなりません。この複雑な判定を競技化するための第一段階の方法を、「電光掲示」するとの事でした。
益々日本の武道(礼儀や精神の鍛錬等の修行)からかけ離れていく感がいたします。
剣道を、ただ単純な「勝負」だけの競技化にしてしまってもでいいのでしょうか。この流れがチョロチョロの小川の内に堰き止めて、川干ししてしまい埋めて流れを永遠に止めてしまうのか、それとも、大河となり押し流されるのを待つのか、どちらが日本武道としては正しい判断でしょうか。
オリンピック競技化を期待する動きもあるように記事には書いてあります。(ここでは今日は取り上げません。)
この「オリンピック競技化」を目論んでいますのは、正に、朝鮮です。朝鮮の陰謀と自国の歴史捏造の絡みから「オリンピック競技化」を推し進めています。
これには、朝鮮としては過去にテコンドーのオリンピック種目登録の実績がありますので、その轍を踏まえて二重三重の詐称を繰り返し行ってくることは間違いありません。
しかし、テコンドーと剣道とではまるっきり「武道」の本筋が違います。
如何でしょう日本人の皆さん、特に、日本武道を練習している皆さん、今こそ「大同団結」の時です。朝鮮の横暴をこれ以上増長させないためにも、力を結集して断固反論しようではありませんか。
永い伝統と栄えある歴史に輝ける「大和民族」の力をみせる時は今です。「時は今。」です。
タグ :剣道
Posted by 阿羅漢 at
01:21
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2011年09月08日
武道修行(道を求めて)「終わりのない道程」
武道修行に終わりというものがあるのだろうか。
ないであろう。
というのは、例えば、一つの技をつきつめればつきつめていくほどに、道がどんどんと開けていき、奥が深くなっていき、次から次へと課題や問題が山積してきて、決して納得のいける技とはいえなくなってきます。
また、初歩段階で納得した技も、修行してきますと、同じ技を行ってみても、とても満足できない技になってきていることに気がつきます。
今、未だ「杖道」と「居合道」はどちらも、修行の道の本当に第一歩を踏み出したばかりの初心者ですが、少林寺拳法は何とか年数だけは過ぎ去っています。
少林寺拳法の技に例えてみますと、「逆小手」という技が「柔法」の龍華拳の中にあります。
この技は級拳士の時に初めは、鉤手守法から入り、次に、投げを打っていきますが、級拳士の時の、「逆小手」と、三段を取得してからの技では、自ずから冴えや、また、決めに違いが出てきて当然です。
固め技も、最初は、前指固を使って相手を制しますが、同じ様に上の段にいきますと、裏固を使用し裏三枚から肩を攻め、息が出来ないくらいの決め技を駆使していきます。
また、初心拳士には出来ない「逆小手」の変化技もやるようになってきます。
これは柔法の一つの例ですが、同じ様な事が「剛法」の中にも出てきます。
仁王拳の中に流水蹴という技があります。この技は、初心者の初心者が行う技でして、単純に相手の上段直突を後ろに避けるか、斜め前に避けるかの違いですが、その後に、後ろに下がった場合は順蹴りを、斜めに体を捌いた場合は逆蹴り(廻し蹴り)を行っていくだけです。
この技の変化ではないですが、上の段にいきますと攻撃は、上段直突と、中段逆突の二連突を行い、守者は、これを上受け、すかさず、内受け下受けの二連受けを同時に行い、順蹴りを蹴って反攻していきます。
この技は、天王拳「突天一」という技になります。
この様に、最初に習った単純な技から、その道に染まっていく(帯の色の変化。白い「純真無垢」から、黒い色へと染まっていく。)につれて、高度な技術を学んでいくようになり、自然と体もその変化に慣れてきてしまうのも、練習の賜物ではないでしょうか。
今、騒然とした世の中です。家に居ても何が起こるかわかりませんが、一歩外へ足を踏み出しますと、何事が起こるか判らない世の中になっています。特に、タイ国は、米国と同じ様に「銃器」の取扱についてはそんなにやかましい規制、厳しい罰則がないように感じています。
といいますのは、「薬物」絡みのニュ-スがテレビに流れますと、必ずといっていいほどに薬物と並べられて、短銃と自動小銃が数丁は没収されています。
タイの服装を見てみますと、シャツをズボンの外に出して(日本では「だらしがない」と怒られていましたが。)着ています。タイでは当たり前の着方です。暑い気候のせいかどうかは解りませんが、誰もが行っている服の着方です。
以前私が、シャツを中に入れて日本でのいつものとおり着ていましたら妻が、「田舎くさい」と言っていました。(文化の違い。生活習慣の違いでしょうか)
この服装も問題です。腰に何を挟んでいるか見当が付きません、全員が何か持っているということは考えられない事ですが、日本ですと、凶器は「バック等」の中に忍び込ませて持ち運びますが、タイは体に密着した形で持ち運んでいても、決して不思議ではありません。
少林寺拳法の管長先生が「ご法話」の中でこのような事を、お話されていたことを思い出します。
「何時も、ボケ-ッとしていてはいけないのです。常に危機管理を念頭において行動してください。それには、今、自分がどのような状態に居て、周りの状態がどうなっているか、そしてこの様になった時には、どう対処するかを何時も頭の片隅に入れて行動してください。(八方目)大切です。」
と、このようなお話をされていた事を思い出しました。
何時如何なる場合であっても、自分のおかれている立場や環境を適切に把握しておき、咄嗟の危機には悠然と、そして即、対応が可能な体制と心構えを日常的に行っておけば「備えあれば憂いなし。」は間違いなしであると確信しています。
それには、常日頃の武道の鍛錬が不可欠な要素であると思っています。反射神経の訓練や、不撓不屈の精神力を養うには、一歩一歩の努力が大切であると思っています。
武道修行の道は果てしない「生涯」の「旅」です。でも、楽しい旅です。
ないであろう。
というのは、例えば、一つの技をつきつめればつきつめていくほどに、道がどんどんと開けていき、奥が深くなっていき、次から次へと課題や問題が山積してきて、決して納得のいける技とはいえなくなってきます。
また、初歩段階で納得した技も、修行してきますと、同じ技を行ってみても、とても満足できない技になってきていることに気がつきます。
今、未だ「杖道」と「居合道」はどちらも、修行の道の本当に第一歩を踏み出したばかりの初心者ですが、少林寺拳法は何とか年数だけは過ぎ去っています。
少林寺拳法の技に例えてみますと、「逆小手」という技が「柔法」の龍華拳の中にあります。
この技は級拳士の時に初めは、鉤手守法から入り、次に、投げを打っていきますが、級拳士の時の、「逆小手」と、三段を取得してからの技では、自ずから冴えや、また、決めに違いが出てきて当然です。
固め技も、最初は、前指固を使って相手を制しますが、同じ様に上の段にいきますと、裏固を使用し裏三枚から肩を攻め、息が出来ないくらいの決め技を駆使していきます。
また、初心拳士には出来ない「逆小手」の変化技もやるようになってきます。
これは柔法の一つの例ですが、同じ様な事が「剛法」の中にも出てきます。
仁王拳の中に流水蹴という技があります。この技は、初心者の初心者が行う技でして、単純に相手の上段直突を後ろに避けるか、斜め前に避けるかの違いですが、その後に、後ろに下がった場合は順蹴りを、斜めに体を捌いた場合は逆蹴り(廻し蹴り)を行っていくだけです。
この技の変化ではないですが、上の段にいきますと攻撃は、上段直突と、中段逆突の二連突を行い、守者は、これを上受け、すかさず、内受け下受けの二連受けを同時に行い、順蹴りを蹴って反攻していきます。
この技は、天王拳「突天一」という技になります。
この様に、最初に習った単純な技から、その道に染まっていく(帯の色の変化。白い「純真無垢」から、黒い色へと染まっていく。)につれて、高度な技術を学んでいくようになり、自然と体もその変化に慣れてきてしまうのも、練習の賜物ではないでしょうか。
今、騒然とした世の中です。家に居ても何が起こるかわかりませんが、一歩外へ足を踏み出しますと、何事が起こるか判らない世の中になっています。特に、タイ国は、米国と同じ様に「銃器」の取扱についてはそんなにやかましい規制、厳しい罰則がないように感じています。
といいますのは、「薬物」絡みのニュ-スがテレビに流れますと、必ずといっていいほどに薬物と並べられて、短銃と自動小銃が数丁は没収されています。
タイの服装を見てみますと、シャツをズボンの外に出して(日本では「だらしがない」と怒られていましたが。)着ています。タイでは当たり前の着方です。暑い気候のせいかどうかは解りませんが、誰もが行っている服の着方です。
以前私が、シャツを中に入れて日本でのいつものとおり着ていましたら妻が、「田舎くさい」と言っていました。(文化の違い。生活習慣の違いでしょうか)
この服装も問題です。腰に何を挟んでいるか見当が付きません、全員が何か持っているということは考えられない事ですが、日本ですと、凶器は「バック等」の中に忍び込ませて持ち運びますが、タイは体に密着した形で持ち運んでいても、決して不思議ではありません。
少林寺拳法の管長先生が「ご法話」の中でこのような事を、お話されていたことを思い出します。
「何時も、ボケ-ッとしていてはいけないのです。常に危機管理を念頭において行動してください。それには、今、自分がどのような状態に居て、周りの状態がどうなっているか、そしてこの様になった時には、どう対処するかを何時も頭の片隅に入れて行動してください。(八方目)大切です。」
と、このようなお話をされていた事を思い出しました。
何時如何なる場合であっても、自分のおかれている立場や環境を適切に把握しておき、咄嗟の危機には悠然と、そして即、対応が可能な体制と心構えを日常的に行っておけば「備えあれば憂いなし。」は間違いなしであると確信しています。
それには、常日頃の武道の鍛錬が不可欠な要素であると思っています。反射神経の訓練や、不撓不屈の精神力を養うには、一歩一歩の努力が大切であると思っています。
武道修行の道は果てしない「生涯」の「旅」です。でも、楽しい旅です。
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Posted by 阿羅漢 at
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