2011年09月08日
武道修行(道を求めて)「終わりのない道程」
武道修行に終わりというものがあるのだろうか。
ないであろう。
というのは、例えば、一つの技をつきつめればつきつめていくほどに、道がどんどんと開けていき、奥が深くなっていき、次から次へと課題や問題が山積してきて、決して納得のいける技とはいえなくなってきます。
また、初歩段階で納得した技も、修行してきますと、同じ技を行ってみても、とても満足できない技になってきていることに気がつきます。
今、未だ「杖道」と「居合道」はどちらも、修行の道の本当に第一歩を踏み出したばかりの初心者ですが、少林寺拳法は何とか年数だけは過ぎ去っています。
少林寺拳法の技に例えてみますと、「逆小手」という技が「柔法」の龍華拳の中にあります。
この技は級拳士の時に初めは、鉤手守法から入り、次に、投げを打っていきますが、級拳士の時の、「逆小手」と、三段を取得してからの技では、自ずから冴えや、また、決めに違いが出てきて当然です。
固め技も、最初は、前指固を使って相手を制しますが、同じ様に上の段にいきますと、裏固を使用し裏三枚から肩を攻め、息が出来ないくらいの決め技を駆使していきます。
また、初心拳士には出来ない「逆小手」の変化技もやるようになってきます。
これは柔法の一つの例ですが、同じ様な事が「剛法」の中にも出てきます。
仁王拳の中に流水蹴という技があります。この技は、初心者の初心者が行う技でして、単純に相手の上段直突を後ろに避けるか、斜め前に避けるかの違いですが、その後に、後ろに下がった場合は順蹴りを、斜めに体を捌いた場合は逆蹴り(廻し蹴り)を行っていくだけです。
この技の変化ではないですが、上の段にいきますと攻撃は、上段直突と、中段逆突の二連突を行い、守者は、これを上受け、すかさず、内受け下受けの二連受けを同時に行い、順蹴りを蹴って反攻していきます。
この技は、天王拳「突天一」という技になります。
この様に、最初に習った単純な技から、その道に染まっていく(帯の色の変化。白い「純真無垢」から、黒い色へと染まっていく。)につれて、高度な技術を学んでいくようになり、自然と体もその変化に慣れてきてしまうのも、練習の賜物ではないでしょうか。
今、騒然とした世の中です。家に居ても何が起こるかわかりませんが、一歩外へ足を踏み出しますと、何事が起こるか判らない世の中になっています。特に、タイ国は、米国と同じ様に「銃器」の取扱についてはそんなにやかましい規制、厳しい罰則がないように感じています。
といいますのは、「薬物」絡みのニュ-スがテレビに流れますと、必ずといっていいほどに薬物と並べられて、短銃と自動小銃が数丁は没収されています。
タイの服装を見てみますと、シャツをズボンの外に出して(日本では「だらしがない」と怒られていましたが。)着ています。タイでは当たり前の着方です。暑い気候のせいかどうかは解りませんが、誰もが行っている服の着方です。
以前私が、シャツを中に入れて日本でのいつものとおり着ていましたら妻が、「田舎くさい」と言っていました。(文化の違い。生活習慣の違いでしょうか)
この服装も問題です。腰に何を挟んでいるか見当が付きません、全員が何か持っているということは考えられない事ですが、日本ですと、凶器は「バック等」の中に忍び込ませて持ち運びますが、タイは体に密着した形で持ち運んでいても、決して不思議ではありません。
少林寺拳法の管長先生が「ご法話」の中でこのような事を、お話されていたことを思い出します。
「何時も、ボケ-ッとしていてはいけないのです。常に危機管理を念頭において行動してください。それには、今、自分がどのような状態に居て、周りの状態がどうなっているか、そしてこの様になった時には、どう対処するかを何時も頭の片隅に入れて行動してください。(八方目)大切です。」
と、このようなお話をされていた事を思い出しました。
何時如何なる場合であっても、自分のおかれている立場や環境を適切に把握しておき、咄嗟の危機には悠然と、そして即、対応が可能な体制と心構えを日常的に行っておけば「備えあれば憂いなし。」は間違いなしであると確信しています。
それには、常日頃の武道の鍛錬が不可欠な要素であると思っています。反射神経の訓練や、不撓不屈の精神力を養うには、一歩一歩の努力が大切であると思っています。
武道修行の道は果てしない「生涯」の「旅」です。でも、楽しい旅です。
ないであろう。
というのは、例えば、一つの技をつきつめればつきつめていくほどに、道がどんどんと開けていき、奥が深くなっていき、次から次へと課題や問題が山積してきて、決して納得のいける技とはいえなくなってきます。
また、初歩段階で納得した技も、修行してきますと、同じ技を行ってみても、とても満足できない技になってきていることに気がつきます。
今、未だ「杖道」と「居合道」はどちらも、修行の道の本当に第一歩を踏み出したばかりの初心者ですが、少林寺拳法は何とか年数だけは過ぎ去っています。
少林寺拳法の技に例えてみますと、「逆小手」という技が「柔法」の龍華拳の中にあります。
この技は級拳士の時に初めは、鉤手守法から入り、次に、投げを打っていきますが、級拳士の時の、「逆小手」と、三段を取得してからの技では、自ずから冴えや、また、決めに違いが出てきて当然です。
固め技も、最初は、前指固を使って相手を制しますが、同じ様に上の段にいきますと、裏固を使用し裏三枚から肩を攻め、息が出来ないくらいの決め技を駆使していきます。
また、初心拳士には出来ない「逆小手」の変化技もやるようになってきます。
これは柔法の一つの例ですが、同じ様な事が「剛法」の中にも出てきます。
仁王拳の中に流水蹴という技があります。この技は、初心者の初心者が行う技でして、単純に相手の上段直突を後ろに避けるか、斜め前に避けるかの違いですが、その後に、後ろに下がった場合は順蹴りを、斜めに体を捌いた場合は逆蹴り(廻し蹴り)を行っていくだけです。
この技の変化ではないですが、上の段にいきますと攻撃は、上段直突と、中段逆突の二連突を行い、守者は、これを上受け、すかさず、内受け下受けの二連受けを同時に行い、順蹴りを蹴って反攻していきます。
この技は、天王拳「突天一」という技になります。
この様に、最初に習った単純な技から、その道に染まっていく(帯の色の変化。白い「純真無垢」から、黒い色へと染まっていく。)につれて、高度な技術を学んでいくようになり、自然と体もその変化に慣れてきてしまうのも、練習の賜物ではないでしょうか。
今、騒然とした世の中です。家に居ても何が起こるかわかりませんが、一歩外へ足を踏み出しますと、何事が起こるか判らない世の中になっています。特に、タイ国は、米国と同じ様に「銃器」の取扱についてはそんなにやかましい規制、厳しい罰則がないように感じています。
といいますのは、「薬物」絡みのニュ-スがテレビに流れますと、必ずといっていいほどに薬物と並べられて、短銃と自動小銃が数丁は没収されています。
タイの服装を見てみますと、シャツをズボンの外に出して(日本では「だらしがない」と怒られていましたが。)着ています。タイでは当たり前の着方です。暑い気候のせいかどうかは解りませんが、誰もが行っている服の着方です。
以前私が、シャツを中に入れて日本でのいつものとおり着ていましたら妻が、「田舎くさい」と言っていました。(文化の違い。生活習慣の違いでしょうか)
この服装も問題です。腰に何を挟んでいるか見当が付きません、全員が何か持っているということは考えられない事ですが、日本ですと、凶器は「バック等」の中に忍び込ませて持ち運びますが、タイは体に密着した形で持ち運んでいても、決して不思議ではありません。
少林寺拳法の管長先生が「ご法話」の中でこのような事を、お話されていたことを思い出します。
「何時も、ボケ-ッとしていてはいけないのです。常に危機管理を念頭において行動してください。それには、今、自分がどのような状態に居て、周りの状態がどうなっているか、そしてこの様になった時には、どう対処するかを何時も頭の片隅に入れて行動してください。(八方目)大切です。」
と、このようなお話をされていた事を思い出しました。
何時如何なる場合であっても、自分のおかれている立場や環境を適切に把握しておき、咄嗟の危機には悠然と、そして即、対応が可能な体制と心構えを日常的に行っておけば「備えあれば憂いなし。」は間違いなしであると確信しています。
それには、常日頃の武道の鍛錬が不可欠な要素であると思っています。反射神経の訓練や、不撓不屈の精神力を養うには、一歩一歩の努力が大切であると思っています。
武道修行の道は果てしない「生涯」の「旅」です。でも、楽しい旅です。
Posted by 阿羅漢 at 00:03│Comments(0)