2011年01月03日
少林寺拳法「開祖」法話 3
少林寺拳法は現在修行しています武道の基礎であります。杖道また、居合道の足腰の入れ方抜き方に少林寺で訓練しました各技が生かされています。
特に杖道の入り身や後退そして呼吸法また、膝を落としての技の仕掛けには大いに少林寺拳法の体術が生きています。
〔管長先生のご法話を掲載させていただいていますが記載事項の「新聞記事」を除きまして、全文はあくまでも私の独断と一存で記載していることでありますので、一切の責任は私に有ります。宜しくお願いいたします。〕
少林寺拳法の管長先生のご法話を投稿し始めまして今回で3回目となります。
第1回目は、「己が第一だが、すべてではない」(昨年10月17日)
2回目は、「何かの時には助け合える人間関係を」」(昨年の10月23日)
第3回目は、「人は一人では存在できない」を記載していきます。
人間は一人では存在できない
『新聞少林寺拳法』1990年11月号より
『この世の中、社会のことはすべて、人間が行い、人間が計画し管理しておる。要するに、そのポストに立っておる人の心の持ち方にある。そういうことで、人間の心の改造をやろうとしているのが金剛禅の大特徴である。たとえば君たちの家庭やその周辺で、こういうことを感じんか。一人のいい息子がいるということによって、そこの家庭がころっと変わります。逆に、一人のぐれた前科者が出るっていうと、その家庭はみんなが迷惑をする。こういうことは諸君の周辺にごろごろしているでしよう。優れた者一人ということがいかに重要かということです。
われわれはその優れた人間にまず、自らを置こうではないか。そして、周辺にもそういういい影響を与えようではないか。こういう教えなのです。身心の改造によって、人間が人間を尊重できるようになる。で、自分と他人と、ともに幸福になろうという、この単純にして明快な「幸福運動」も、常時体を鍛え、心を磨き、行動の中にそういうものを実践活動として表すということが母体となってできるのです。
(1966年の法話)
人間というのはなと、中国人が教えてくれた。「人」という字はこういうふうにもたれ合ってる。(不明個所)。両方がもたれ合って、つっかえ合って、それで伸びていくというところに本当のものがあるわけだ。愛情。仏教では慈悲というけれども、そういうものが主体となるというのが人間の基本なのだ。本当の幸せというものは、相手をやっつけたり、やっつけられたりすることとは違うと思うんだ。
今、人間が一番しなければならないことは、殺し合いではない。世の中をよくするということは、やはり人間同士が英知をはたらかせてね、自分の幸せも考えるが、自分以外の他人の幸せも考えるような、そういう人間を増やす以外に方法がないということを私は見つけた。自分の体験からね。
(1966年の法話)
「少林寺拳法は、単なるスポーツでも武道でもない」と、私は言い切っている。なぜかというと、スポーツというもの自体が、やっぱり勝たなきゃいけない。勝つということは、自分の相手をやっつけることになる。相手が先輩であろうと後輩であろうと、とにかく自分を追い越したらいけないので、引きずりおろすことぱかり考える。だからスポーツが栄える国もだめ。それから、武道とか戦争技術みたいなものが栄える国もこれはだめなのだ。なぜなら、人間の心は力だけでは制圧できないからです。力で征服してうまくやるということはまず不可能なのだ。時代も違う。もう二〇世紀の終わりだ。今ごろ武道やスポーツなんていうものは必要ないと思っている。』
(1969年8月の法話)
山奥深い奥地で一人で住んでいれば別ですが、現代の世の中は人人人が溢れています。この人達と心を通じ合わせお互いがお互いを尊重しあえる世の中ができうれば、争いや戦争がなくなることでしょうが。
今回の管長先生のご法話も、ご自分の実体験の中から見出されてきました考え方を拳士一同にお示し下さっています。この貴重なご法話を自分の胸に刻み込む共に実現実行していくことをいつも肝に銘じております。
今日はこのへんで終わりとさせていただきます。また、機会を見つけまして記載していきたいと思います。
特に杖道の入り身や後退そして呼吸法また、膝を落としての技の仕掛けには大いに少林寺拳法の体術が生きています。
〔管長先生のご法話を掲載させていただいていますが記載事項の「新聞記事」を除きまして、全文はあくまでも私の独断と一存で記載していることでありますので、一切の責任は私に有ります。宜しくお願いいたします。〕
少林寺拳法の管長先生のご法話を投稿し始めまして今回で3回目となります。
第1回目は、「己が第一だが、すべてではない」(昨年10月17日)
2回目は、「何かの時には助け合える人間関係を」」(昨年の10月23日)
第3回目は、「人は一人では存在できない」を記載していきます。
人間は一人では存在できない
『新聞少林寺拳法』1990年11月号より
『この世の中、社会のことはすべて、人間が行い、人間が計画し管理しておる。要するに、そのポストに立っておる人の心の持ち方にある。そういうことで、人間の心の改造をやろうとしているのが金剛禅の大特徴である。たとえば君たちの家庭やその周辺で、こういうことを感じんか。一人のいい息子がいるということによって、そこの家庭がころっと変わります。逆に、一人のぐれた前科者が出るっていうと、その家庭はみんなが迷惑をする。こういうことは諸君の周辺にごろごろしているでしよう。優れた者一人ということがいかに重要かということです。
われわれはその優れた人間にまず、自らを置こうではないか。そして、周辺にもそういういい影響を与えようではないか。こういう教えなのです。身心の改造によって、人間が人間を尊重できるようになる。で、自分と他人と、ともに幸福になろうという、この単純にして明快な「幸福運動」も、常時体を鍛え、心を磨き、行動の中にそういうものを実践活動として表すということが母体となってできるのです。
(1966年の法話)
人間というのはなと、中国人が教えてくれた。「人」という字はこういうふうにもたれ合ってる。(不明個所)。両方がもたれ合って、つっかえ合って、それで伸びていくというところに本当のものがあるわけだ。愛情。仏教では慈悲というけれども、そういうものが主体となるというのが人間の基本なのだ。本当の幸せというものは、相手をやっつけたり、やっつけられたりすることとは違うと思うんだ。
今、人間が一番しなければならないことは、殺し合いではない。世の中をよくするということは、やはり人間同士が英知をはたらかせてね、自分の幸せも考えるが、自分以外の他人の幸せも考えるような、そういう人間を増やす以外に方法がないということを私は見つけた。自分の体験からね。
(1966年の法話)
「少林寺拳法は、単なるスポーツでも武道でもない」と、私は言い切っている。なぜかというと、スポーツというもの自体が、やっぱり勝たなきゃいけない。勝つということは、自分の相手をやっつけることになる。相手が先輩であろうと後輩であろうと、とにかく自分を追い越したらいけないので、引きずりおろすことぱかり考える。だからスポーツが栄える国もだめ。それから、武道とか戦争技術みたいなものが栄える国もこれはだめなのだ。なぜなら、人間の心は力だけでは制圧できないからです。力で征服してうまくやるということはまず不可能なのだ。時代も違う。もう二〇世紀の終わりだ。今ごろ武道やスポーツなんていうものは必要ないと思っている。』
(1969年8月の法話)
山奥深い奥地で一人で住んでいれば別ですが、現代の世の中は人人人が溢れています。この人達と心を通じ合わせお互いがお互いを尊重しあえる世の中ができうれば、争いや戦争がなくなることでしょうが。
今回の管長先生のご法話も、ご自分の実体験の中から見出されてきました考え方を拳士一同にお示し下さっています。この貴重なご法話を自分の胸に刻み込む共に実現実行していくことをいつも肝に銘じております。
今日はこのへんで終わりとさせていただきます。また、機会を見つけまして記載していきたいと思います。
Posted by 阿羅漢 at 15:30│Comments(0)