2011年08月22日
少林寺拳法「開祖」法話 5
「開祖」法話も今回で第五話となります。今までに投稿しましたご法話(題名)は、下記に掲載しておきましたので、どうぞごらんください。
私はいつも有り難く思っていますことは、毎日が「武道三昧」で過ごす事ができているという事です。食べる心配もまるで無く、寝る所の心配もなく、ましてやお金の心配も全然していませんし、本当に24時間以上が武道中心の生活を送らせていただいています。
それでいまして、決して苦では有りません。逆に毎日が楽しくしょうがないくらいです。
(いつものことですが、こんな武道中心で考えています生活ですが、何も言わない妻には大変大変感謝しています。)
こんな私の武道に対する基本的な考え方、また、他の武道においてもその基礎運動力等の根源となっていますのが、『少林寺拳法』です。
〔管長先生のご法話を掲載させていただいていますが記載事項
の「新聞記事」を除きまして、全文はあくまでも私の独断と一存
で記載していることでありますので、一切の責任は私に有りま
す。 宜しくお願いいたします。〕
少林寺拳法の管長先生のご法話を投稿し始めまして今回で5回目となります。
第1回目は、「己が第一だが、すべてではない」(昨年10月17日)
2回目は、「何かの時には助け合える人間関係を」」(昨年の10月23日)
3回目は、「人は一人では存在できない』(本年1月3日)
4回目は、「横へのつながりをもっと持て!」(本年3月20日)
言うだけでなく行動を!
『新聞少林寺拳法』1991年2月
『ある日の新聞に出ていた。子どもが川でおぼれている。一緒に遊んでいた子が道路に飛んで出て、手をあげて、どうぞ助けて下さいと言った。ところが、ひき殺したらいかんから車は止めるけれども、助けてくれる者は一人もいなかったというんだ。似たようなことは毎日の新聞にいっばいありますよ。通勤電車の中で誰かがのさばっている。みんな見て見ぬふりをしている。
「おれには関係ない」「かかわり合ったら困る」、こういうことではね、世の中良くなりっこないのだ。あの人はかわいそうだ、あんな悪いことをしていると言ってみたって何も解決しない。言うだけでなく、行動しようじゃないか。』
(1969年10月・指導者講習会での法話より)
管長先生は兎に角「行動しろ」を何時も言っておられました。夏期講習会や夏期大学の講義に臨まれますと、1回乃至は2回はこの言葉が出てきますくらい、「行動」の是非については強く述べられておられました。
その中で少林寺拳法が掲げた行動目標の一つに『行動する少林寺』という指針が掲げられていた事を思い出します。
そのために当時管長先生は自らのお車を「ジープ」になされ、自ら行動する少林寺、の先頭に立っての意気込みをお示しなさっていました。
また各道院,支部においても拳士はできるだけ「ジープ」を購入し、積極果敢に行動するよう、管長先生は拳士に呼びかけられていました。(拳士も常に「行動」を心根に持って修行に励んでいました。)
私の所属していました道院でも、4段以上の何人かの拳士は、新規購入時に買い換えた人がいたと思います。
管長先生のご法話「言うだけでなく行動を」は、武士道の精神の中にも有ります、「義を見てせざるは、勇なきなり」と説かれていますように、人の難儀に際して、義(人の道)を行使しないのは勇(義のために行われるのでなければ、徳の中に数えられる価値はない)の欠如であるといわれております。
側から見ても困っている人への最初の一言「大丈夫ですか。」これが中々言えない一言でありますが、本当に困り抜いている人には、優しく声をかけてあげて手を差し伸べえあげたいものです。
よく電車の中でも座席を独り占めして、ふんぞり返って悦にドーンと寝たふりを決め込んでいる人などを見かけますが、この様な輩は言語同断であると私は考えます。
何のために、誰のために、何故、武道を修行していますか。
その答えは、自己のため、自己確立のため自己鍛錬のためであり、
そして、自己確立できた人間は、他のために役立つ力を備える、他の人のために力を貸してあげる、
これが、少林寺拳法の
自他共楽 金剛禅運動
(少林寺拳法の「詩」の一節)
五 半ばは他人の幸せを 半ばはわが身の幸せを 心に誓う 少林寺
です。
最後になりました。前回も記載しましたが、管長先生がお話いただいていますご法話を、私は何時も心の中で反芻しています。しかし、これは知っている事ではなく、できることをやっていこうと常に決心するためにです。
微力です、一人でどこまでできるかは判りませんが、少林寺拳法で鍛えたこの肉体そして護身の術、また、今も武道で修行中のこの精神を駆使してがんばっていこうと思っています。
今日は「言うだけでなく行動を!」というご法話を記載させていただきました。
私はいつも有り難く思っていますことは、毎日が「武道三昧」で過ごす事ができているという事です。食べる心配もまるで無く、寝る所の心配もなく、ましてやお金の心配も全然していませんし、本当に24時間以上が武道中心の生活を送らせていただいています。
それでいまして、決して苦では有りません。逆に毎日が楽しくしょうがないくらいです。
(いつものことですが、こんな武道中心で考えています生活ですが、何も言わない妻には大変大変感謝しています。)
こんな私の武道に対する基本的な考え方、また、他の武道においてもその基礎運動力等の根源となっていますのが、『少林寺拳法』です。
〔管長先生のご法話を掲載させていただいていますが記載事項
の「新聞記事」を除きまして、全文はあくまでも私の独断と一存
で記載していることでありますので、一切の責任は私に有りま
す。 宜しくお願いいたします。〕
少林寺拳法の管長先生のご法話を投稿し始めまして今回で5回目となります。
第1回目は、「己が第一だが、すべてではない」(昨年10月17日)
2回目は、「何かの時には助け合える人間関係を」」(昨年の10月23日)
3回目は、「人は一人では存在できない』(本年1月3日)
4回目は、「横へのつながりをもっと持て!」(本年3月20日)
言うだけでなく行動を!
『新聞少林寺拳法』1991年2月
『ある日の新聞に出ていた。子どもが川でおぼれている。一緒に遊んでいた子が道路に飛んで出て、手をあげて、どうぞ助けて下さいと言った。ところが、ひき殺したらいかんから車は止めるけれども、助けてくれる者は一人もいなかったというんだ。似たようなことは毎日の新聞にいっばいありますよ。通勤電車の中で誰かがのさばっている。みんな見て見ぬふりをしている。
「おれには関係ない」「かかわり合ったら困る」、こういうことではね、世の中良くなりっこないのだ。あの人はかわいそうだ、あんな悪いことをしていると言ってみたって何も解決しない。言うだけでなく、行動しようじゃないか。』
(1969年10月・指導者講習会での法話より)
管長先生は兎に角「行動しろ」を何時も言っておられました。夏期講習会や夏期大学の講義に臨まれますと、1回乃至は2回はこの言葉が出てきますくらい、「行動」の是非については強く述べられておられました。
その中で少林寺拳法が掲げた行動目標の一つに『行動する少林寺』という指針が掲げられていた事を思い出します。
そのために当時管長先生は自らのお車を「ジープ」になされ、自ら行動する少林寺、の先頭に立っての意気込みをお示しなさっていました。
また各道院,支部においても拳士はできるだけ「ジープ」を購入し、積極果敢に行動するよう、管長先生は拳士に呼びかけられていました。(拳士も常に「行動」を心根に持って修行に励んでいました。)
私の所属していました道院でも、4段以上の何人かの拳士は、新規購入時に買い換えた人がいたと思います。
管長先生のご法話「言うだけでなく行動を」は、武士道の精神の中にも有ります、「義を見てせざるは、勇なきなり」と説かれていますように、人の難儀に際して、義(人の道)を行使しないのは勇(義のために行われるのでなければ、徳の中に数えられる価値はない)の欠如であるといわれております。
側から見ても困っている人への最初の一言「大丈夫ですか。」これが中々言えない一言でありますが、本当に困り抜いている人には、優しく声をかけてあげて手を差し伸べえあげたいものです。
よく電車の中でも座席を独り占めして、ふんぞり返って悦にドーンと寝たふりを決め込んでいる人などを見かけますが、この様な輩は言語同断であると私は考えます。
何のために、誰のために、何故、武道を修行していますか。
その答えは、自己のため、自己確立のため自己鍛錬のためであり、
そして、自己確立できた人間は、他のために役立つ力を備える、他の人のために力を貸してあげる、
これが、少林寺拳法の
自他共楽 金剛禅運動
(少林寺拳法の「詩」の一節)
五 半ばは他人の幸せを 半ばはわが身の幸せを 心に誓う 少林寺
です。
最後になりました。前回も記載しましたが、管長先生がお話いただいていますご法話を、私は何時も心の中で反芻しています。しかし、これは知っている事ではなく、できることをやっていこうと常に決心するためにです。
微力です、一人でどこまでできるかは判りませんが、少林寺拳法で鍛えたこの肉体そして護身の術、また、今も武道で修行中のこの精神を駆使してがんばっていこうと思っています。
今日は「言うだけでなく行動を!」というご法話を記載させていただきました。
Posted by 阿羅漢 at 15:24│Comments(0)