2010年04月14日
武道と強さ
少林寺拳法の門を叩く人の大半が、「強くなりたい。」。この願望を満たすために入門してくる人が多いと思います。少林寺では確かに突いてきたのを受け突きかえし、蹴ってきた足を受けて蹴り又は突きかえしたりの技を教えてくれます。
初歩の段階では受けた腕が痛くて、痣があちこちにでき冬の間はいいのですが、半袖になる夏は「赤痣」が見えるのが大変恥ずかしかったのですが、上の段位なってくると逆に勲章ではないですが、練習の成果として嬉しくなっていた時もありました。
さて、強さとは何でしょうか。例えば、自分から争いを求めそれに勝利することですか。
今日は何人と戦って何人倒した。それが本当の強さですか。
武道の修行を通じて教えられる『強さ』とは、以前にも投稿記事として書いてありますが、本来の武道の本質「武の意義」を追い詰めていけば、自ずから自覚し判ってくることではないかと思います。その点少林寺の教えは、自分を律し自己を調整しまた大切にし「自己確立」することが修行の中で確立されてきますので、自ら争いごとを求めていくのではなく、その大義名分は、『世のため人のため』社会貢献を目指す人間教育にあります。
私は、タイ国で武道の修行を通じて本当の強さを求め日々訓練をしています。
もし、私の考え方に賛同してくださり一緒に武道の練習をしてもいいよ、というタイ在住(老若男女問いません)の方がいらっしゃいましたら、こちらから伺いますので是非ご一報ください。
ブログ投稿をお待ちしています。
初歩の段階では受けた腕が痛くて、痣があちこちにでき冬の間はいいのですが、半袖になる夏は「赤痣」が見えるのが大変恥ずかしかったのですが、上の段位なってくると逆に勲章ではないですが、練習の成果として嬉しくなっていた時もありました。
さて、強さとは何でしょうか。例えば、自分から争いを求めそれに勝利することですか。
今日は何人と戦って何人倒した。それが本当の強さですか。
武道の修行を通じて教えられる『強さ』とは、以前にも投稿記事として書いてありますが、本来の武道の本質「武の意義」を追い詰めていけば、自ずから自覚し判ってくることではないかと思います。その点少林寺の教えは、自分を律し自己を調整しまた大切にし「自己確立」することが修行の中で確立されてきますので、自ら争いごとを求めていくのではなく、その大義名分は、『世のため人のため』社会貢献を目指す人間教育にあります。
私は、タイ国で武道の修行を通じて本当の強さを求め日々訓練をしています。
もし、私の考え方に賛同してくださり一緒に武道の練習をしてもいいよ、というタイ在住(老若男女問いません)の方がいらっしゃいましたら、こちらから伺いますので是非ご一報ください。
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タグ :少林寺拳法
Posted by 阿羅漢 at
21:38
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