2013年01月18日
剣は「師の位」について
杖道を稽古している方、又は、これから稽古してみようかなとお思いの方、是非読んでください。
杖道における、「剣」(太刀)の在り方、心意気をつかむことができるのではないかと思います。
本日も私の「杖道」の先生であります、松井健二先生(神道夢想流杖術免許皆伝,杖道範士八段)の著書「古流へのいざないとしての 杖道打太刀入門」から、杖修行においては大変に重要な位置づけであります、「剣」について、剣は「師の位」と題しまして、抜粋しまして皆様にご紹介していきたいと思います。
「古流へのいざないとしての 杖道打太刀入門」から抜粋
剣は「師の位」
古伝・古流の神道夢想流杖術と全剣連杖道とにおいて明らかに相違してしまっていることとは何かと言えば、太刀遣いの稽古が今日の全剣連杖道の稽古体系の中からすっぽりと欠落してしまっているということです。それは端的に言えば「打太刀」の位と太刀遣いの理解が極端に希薄になってしまっているということでもあります。先に少し触れたように、神道夢想流では杖遣いの稽古は太刀遣いの稽古と共になされて来ました。これは神道夢想流に限ったことではなく、棒杖術を伝承される他の古流においても当然のことでした。剣の遣い方がいい加減であれば、杖の遣い方があやふやなものになるのは自明なことです。
全剣連杖道から古流神道夢想流杖術へ、あるいは逆に神道夢想流杖術から全剣連杖道へと、相互の学びと理解を深めるうえにも、先ず手掛かりとなるのは、杖の遣い方以前にむしろ太刀の遣い方を含めた打太刀の理解にこそあるのではないでしょうか。
打太刀の在り方に対する理解が、古流と全剣連杖道とでは大きく違って来てしまっています。古流においても全剣連杖道においても、「打」(攻撃方)が太刀、「仕」(受方)が杖であることには変わりません。しかも全剣連杖道では稽古の最初から仕杖・打太刀を同時に学んでいくことから、ややもすれば仕・打が対等のように誤解する人も少なくありません。しかし、古伝・古流の神道夢想流杖術においては、現在の全剣連杖道のような多人数での稽古体系もありませんし、まして仕・打が交替しておこなわれる試合形式もありませんでしたから、当然、稽古における杖と打太刀との関係は対等ではないのです。古流では、打太刀が杖を育てるという考えに基づいており、打太刀を許された者は杖よりも技量において上位と認定されていました。特に神道夢想流では、剣は「師の位」と言い、稽古の際には目録以上の者しか打太刀をすることは認められていなかったのです。
杖と打太刀とが同等同格ではなかったということは、打太刀をする者は仕杖をする者よりも錬達した杖遣いであると同時に優れた剣術遣いでもあったわけです。さもなければ、剣が杖を育てるということはできないからです。
これに対して全剣連杖道においてはその成立と制定の中で、いつしか太刀は剣道、居合は居合道、杖は杖道という謙譲による暗黙の棲み分けを、杖道自身がしてしまっているように思われます。杖には形の前に基本の稽古がありますが、太刀には基本の稽古は定められていません。したがって生まれて初めて木刀を手にする者も、最初からいきなり打太刀と仕杖とを同時に教わる稽古体系になっており、なおかつ杖を中心に教わって剣遣いを基礎から学ぶ機会が無い場合も多く見受けられます。なかには杖道なのだからと言って、剣の基本を学ぶことに関心の薄い者もいます。このため、先人達に比べて、現代において杖を学ぶ者の剣の技量は指導者も含めて著しく低下しているのが現状と言わざるを得ません。古流はもとより全剣連杖道においても、剣に対する真摯な追求がなければ、杖の進歩もまたあり得ないのです。私自身も神道流剣術を含めての古流神道夢想流杖術を体現したいがために、鹿島神流をはじめとして優れた各古流の剣術に常に瞠目しつつ、無比流や浅山一伝流の剣術・居合などを学んで来ました。
かつて文字通りの真剣勝負がおこなわれた時代では、杖の相手となる剣は何流とも知れず、抜き放たれた剣だけでなく、居合、その他の武器が相手ということも、体術が相手のこともあります。幕藩時代までの杖術者は、当然剣術も居合も体術も学んでいたのです。
したがって、真の杖術を学び、体現しようとする時、剣の本質はいかなるものかを心得て、広範に学ぶ必要があります。それは全剣連杖道の範囲であっても同じことであると私は考えます。杖に対する剣の在り方を追求することは、先に引用した中山博道師範がいみじくも述懐された神道夢想流の特質を少しでも探る糸口でもあり、剣を少しでも学ぼうとすることによって全剣連杖道もより豊かなものになると信じるからです。
杖道における、「剣」(太刀)の在り方、心意気をつかむことができるのではないかと思います。
本日も私の「杖道」の先生であります、松井健二先生(神道夢想流杖術免許皆伝,杖道範士八段)の著書「古流へのいざないとしての 杖道打太刀入門」から、杖修行においては大変に重要な位置づけであります、「剣」について、剣は「師の位」と題しまして、抜粋しまして皆様にご紹介していきたいと思います。
「古流へのいざないとしての 杖道打太刀入門」から抜粋
剣は「師の位」
古伝・古流の神道夢想流杖術と全剣連杖道とにおいて明らかに相違してしまっていることとは何かと言えば、太刀遣いの稽古が今日の全剣連杖道の稽古体系の中からすっぽりと欠落してしまっているということです。それは端的に言えば「打太刀」の位と太刀遣いの理解が極端に希薄になってしまっているということでもあります。先に少し触れたように、神道夢想流では杖遣いの稽古は太刀遣いの稽古と共になされて来ました。これは神道夢想流に限ったことではなく、棒杖術を伝承される他の古流においても当然のことでした。剣の遣い方がいい加減であれば、杖の遣い方があやふやなものになるのは自明なことです。
全剣連杖道から古流神道夢想流杖術へ、あるいは逆に神道夢想流杖術から全剣連杖道へと、相互の学びと理解を深めるうえにも、先ず手掛かりとなるのは、杖の遣い方以前にむしろ太刀の遣い方を含めた打太刀の理解にこそあるのではないでしょうか。
打太刀の在り方に対する理解が、古流と全剣連杖道とでは大きく違って来てしまっています。古流においても全剣連杖道においても、「打」(攻撃方)が太刀、「仕」(受方)が杖であることには変わりません。しかも全剣連杖道では稽古の最初から仕杖・打太刀を同時に学んでいくことから、ややもすれば仕・打が対等のように誤解する人も少なくありません。しかし、古伝・古流の神道夢想流杖術においては、現在の全剣連杖道のような多人数での稽古体系もありませんし、まして仕・打が交替しておこなわれる試合形式もありませんでしたから、当然、稽古における杖と打太刀との関係は対等ではないのです。古流では、打太刀が杖を育てるという考えに基づいており、打太刀を許された者は杖よりも技量において上位と認定されていました。特に神道夢想流では、剣は「師の位」と言い、稽古の際には目録以上の者しか打太刀をすることは認められていなかったのです。
杖と打太刀とが同等同格ではなかったということは、打太刀をする者は仕杖をする者よりも錬達した杖遣いであると同時に優れた剣術遣いでもあったわけです。さもなければ、剣が杖を育てるということはできないからです。
これに対して全剣連杖道においてはその成立と制定の中で、いつしか太刀は剣道、居合は居合道、杖は杖道という謙譲による暗黙の棲み分けを、杖道自身がしてしまっているように思われます。杖には形の前に基本の稽古がありますが、太刀には基本の稽古は定められていません。したがって生まれて初めて木刀を手にする者も、最初からいきなり打太刀と仕杖とを同時に教わる稽古体系になっており、なおかつ杖を中心に教わって剣遣いを基礎から学ぶ機会が無い場合も多く見受けられます。なかには杖道なのだからと言って、剣の基本を学ぶことに関心の薄い者もいます。このため、先人達に比べて、現代において杖を学ぶ者の剣の技量は指導者も含めて著しく低下しているのが現状と言わざるを得ません。古流はもとより全剣連杖道においても、剣に対する真摯な追求がなければ、杖の進歩もまたあり得ないのです。私自身も神道流剣術を含めての古流神道夢想流杖術を体現したいがために、鹿島神流をはじめとして優れた各古流の剣術に常に瞠目しつつ、無比流や浅山一伝流の剣術・居合などを学んで来ました。
かつて文字通りの真剣勝負がおこなわれた時代では、杖の相手となる剣は何流とも知れず、抜き放たれた剣だけでなく、居合、その他の武器が相手ということも、体術が相手のこともあります。幕藩時代までの杖術者は、当然剣術も居合も体術も学んでいたのです。
したがって、真の杖術を学び、体現しようとする時、剣の本質はいかなるものかを心得て、広範に学ぶ必要があります。それは全剣連杖道の範囲であっても同じことであると私は考えます。杖に対する剣の在り方を追求することは、先に引用した中山博道師範がいみじくも述懐された神道夢想流の特質を少しでも探る糸口でもあり、剣を少しでも学ぼうとすることによって全剣連杖道もより豊かなものになると信じるからです。
タグ :杖道
2013年01月13日
居合演武(第34回 日本人会文化祭)
第34回 日本人会文化祭に参加しましたので、遅くなりましたが報告しておきます。
タイ国日本人会が行う文化祭。毎年開催されますが、昨年は、ご多分に漏れず、あのタイ国全土といっていいほどに猛威を振るって、日本国の在タイ企業にも多大なる損害を出した、「大洪水被害」によって、中止のやむなきに至っていました。
さて、待ちに待った文化祭です。
開催日時は、平成24年12月16日(日)午後零時開会
開催場所は、Mシアター(3階)
本当は、バンコクで稽古をしています全員が、出場していただきたかったのですが、今回は私一人の出番となりました。
二人以上での出場であれば、杖と居合の演武を披露したかったのですが、私一人ですので居合の演武だけとしました。
私の居合演武ですが、
一 全日本剣道連盟制定居合 一本目 「前」
二 全日本剣道連盟制定居合 五本目 「袈裟切り」
三 全日本剣道連盟制定居合 六本目 「諸手突き」
四 全日本剣道連盟制定居合 七本目 「三方切り」
五 全日本剣道連盟制定居合 十一本目 「総切り」
六 夢想神伝流 初伝 大森流 五本目 「陰陽進退」
七 夢想神伝流 初伝 大森流 八本目 「逆刀」
八 夢想神伝流 中伝 長谷川英信流 一本目 「横雲」
の八本を抜かさせていただきました。
Mシアター(中ホール)の舞台上で、眩いばかりのスポットライトを身体全身に浴びて独りで行う「居合演武」は、緊張と共になんともいえない充実感と満足感が輻輳していまして、演武をしながらもなんとも言えない気分でした。
八本の演武の所要時間は、入退場や前後の刀礼等を入れまして丁度8分でした。
自宅での稽古の時も大体8分でおさまっていましたので、ほぼ、予定通りの演武内容ではなかったかと思っています。
自分の演武が自分で見れないのが残念ですが、今回、事務局にて保存用(?)のビデオを撮影していたようですので、後日、何とか見てみたいと思っています。
また、事務局の方から
『気迫のある舞台で、会場も水を打ったようになっていましたね。
次回は是非、杖をご披露いただければと思います。』
とのお言葉をいただいています。
次回、本年ですが、第35回そして、タイ国日本人会は、創立(発会)百周年の記念すべき節目の年に当たります。
是非、杖と居合の演武をタイ国在住の日本人の皆様方に見ていただき、輝ける歴史ある日本の伝統文化の一つを知っていただくと共に、日本人としての『心』の再確認と、再認識をしていただきたく、微力ではありますがその手助けになればと思っています。
タイ国日本人会が行う文化祭。毎年開催されますが、昨年は、ご多分に漏れず、あのタイ国全土といっていいほどに猛威を振るって、日本国の在タイ企業にも多大なる損害を出した、「大洪水被害」によって、中止のやむなきに至っていました。
さて、待ちに待った文化祭です。
開催日時は、平成24年12月16日(日)午後零時開会
開催場所は、Mシアター(3階)
本当は、バンコクで稽古をしています全員が、出場していただきたかったのですが、今回は私一人の出番となりました。
二人以上での出場であれば、杖と居合の演武を披露したかったのですが、私一人ですので居合の演武だけとしました。
私の居合演武ですが、
一 全日本剣道連盟制定居合 一本目 「前」
二 全日本剣道連盟制定居合 五本目 「袈裟切り」
三 全日本剣道連盟制定居合 六本目 「諸手突き」
四 全日本剣道連盟制定居合 七本目 「三方切り」
五 全日本剣道連盟制定居合 十一本目 「総切り」
六 夢想神伝流 初伝 大森流 五本目 「陰陽進退」
七 夢想神伝流 初伝 大森流 八本目 「逆刀」
八 夢想神伝流 中伝 長谷川英信流 一本目 「横雲」
の八本を抜かさせていただきました。
Mシアター(中ホール)の舞台上で、眩いばかりのスポットライトを身体全身に浴びて独りで行う「居合演武」は、緊張と共になんともいえない充実感と満足感が輻輳していまして、演武をしながらもなんとも言えない気分でした。
八本の演武の所要時間は、入退場や前後の刀礼等を入れまして丁度8分でした。
自宅での稽古の時も大体8分でおさまっていましたので、ほぼ、予定通りの演武内容ではなかったかと思っています。
自分の演武が自分で見れないのが残念ですが、今回、事務局にて保存用(?)のビデオを撮影していたようですので、後日、何とか見てみたいと思っています。
また、事務局の方から
『気迫のある舞台で、会場も水を打ったようになっていましたね。
次回は是非、杖をご披露いただければと思います。』
とのお言葉をいただいています。
次回、本年ですが、第35回そして、タイ国日本人会は、創立(発会)百周年の記念すべき節目の年に当たります。
是非、杖と居合の演武をタイ国在住の日本人の皆様方に見ていただき、輝ける歴史ある日本の伝統文化の一つを知っていただくと共に、日本人としての『心』の再確認と、再認識をしていただきたく、微力ではありますがその手助けになればと思っています。
タグ :武道演武
2012年05月31日
杖道の打太刀の特異性
一般的には、武道における稽古方法は、使用する武器が同一が多い。例えば「剣道」は、竹刀対竹刀。また、古流武術の相対には、木刀対木刀や、薙刀対薙刀というように同一武器での対戦を想定しての稽古形態が多いと思います。
稀には、鎖鎌と太刀又は太刀対槍そして、脇差対太刀というのがありますが、これは特殊な稽古であると考えられます。
さて、本日は私の「杖道」の先生であります、松井健二先生(神道夢想流杖術免許皆伝,杖道範士八段)の著書「古流へのいざないとしての 杖道打太刀入門」から『杖道の打太刀の特異性』を抜粋しまして、皆様にご紹介していきたいと思います。
「古流へのいざないとしての 杖道打太刀入門」から抜粋
杖と太刀という武器の相違
杖道は、形稽古に終始し、稽古形態が打(攻撃方)は「木刀」、仕(受方)は「杖」という武器そのものの形態が相違することに特性があります。
通常、お互いの武器が同形態の場合、「形」というものはその成り立ちをよく知った上での約束事としておこなわれます。(例・日本剣道形や各流の剣術等)。
しかし、杖道の場合、片や「平で反りがあり、切れ、刺さる太刀」、片や「真っすぐの丸棒で、切れない刺さらない、しかも鍔がない杖」です。
そのため、全剣連杖道の場合、その基となった神道夢想流(元の古伝。普及形の古流とは相違)では約束事の「形」といえども同形態の武器同士におけるような約束事ではなく、それぞれの武器の長短を利しての真剣勝負といえる実戦の色合いが強くあり、全剣連杖道という普及形になっても、その基本思想を踏襲しているわけで、それを忘れては杖道の持つ実戦的な本質の一面を曲げる、あるいは希薄化することになりかねません。
たとえば「形」として打太刀と杖がお互いに中段に合わせたところから次の動作をする「形」が多いのですが、同形態の武器におけるような約束事ではなく、動くだけの理由が隠されています。ただし、これは口伝であるため、普及形である全剣連杖道の範囲では分かり難いところでもありますが、広範な学びと稽古を通して、それぞれの形や術技の根底にはこうした意味もあることを心に留めていただきたいと思います。工夫と気付きを要するところでもあります。
杖道における打太刀の役割
杖の相手の剣は何流と決まっていたわけではなく、何流かもわからない、だからこそ杖をやる者は、太刀遣いの勉強が不可欠だったのです。まして現代剣道だけが相手ではありません。
また、打太刀の特性も、特に八相の構えが全剣連の八相が手元の低い八相なのに対し、古伝においては一気に太刀風鋭く切り込む大八相(別名「耳構え」)です。さらに、定められた所しか叩かない現代剣道と違い、切れる所を切る多様な剣なのです。
杖道における杖と太刀の関係は、「打太刀は師の位」と言われ、剣が杖を育てる稽古体系であり、太刀遣いがだめなら、杖も真の術技を体現できません。
そのため、太刀遣いは、何流にも共通する原則的な遣い方を幅広く学び、遣えねばなりません。当然ながら現代剣道ではほとんど使わなくなった回刀技術にも習熟する必要があるのです。
ところが、現実には現在の杖道の高段者には現代剣道の経験も少なく、古流の剣術についても「形」は知っていても、基礎の基礎すら知らない者も多くなったのが現状と言えそうです。
以上本日は、杖道おける太刀遣い太刀のあり方についてを記載してみました。
杖道の稽古の仕方の、ご参考の一助になれば幸せです。
稀には、鎖鎌と太刀又は太刀対槍そして、脇差対太刀というのがありますが、これは特殊な稽古であると考えられます。
さて、本日は私の「杖道」の先生であります、松井健二先生(神道夢想流杖術免許皆伝,杖道範士八段)の著書「古流へのいざないとしての 杖道打太刀入門」から『杖道の打太刀の特異性』を抜粋しまして、皆様にご紹介していきたいと思います。
「古流へのいざないとしての 杖道打太刀入門」から抜粋
杖と太刀という武器の相違
杖道は、形稽古に終始し、稽古形態が打(攻撃方)は「木刀」、仕(受方)は「杖」という武器そのものの形態が相違することに特性があります。
通常、お互いの武器が同形態の場合、「形」というものはその成り立ちをよく知った上での約束事としておこなわれます。(例・日本剣道形や各流の剣術等)。
しかし、杖道の場合、片や「平で反りがあり、切れ、刺さる太刀」、片や「真っすぐの丸棒で、切れない刺さらない、しかも鍔がない杖」です。
そのため、全剣連杖道の場合、その基となった神道夢想流(元の古伝。普及形の古流とは相違)では約束事の「形」といえども同形態の武器同士におけるような約束事ではなく、それぞれの武器の長短を利しての真剣勝負といえる実戦の色合いが強くあり、全剣連杖道という普及形になっても、その基本思想を踏襲しているわけで、それを忘れては杖道の持つ実戦的な本質の一面を曲げる、あるいは希薄化することになりかねません。
たとえば「形」として打太刀と杖がお互いに中段に合わせたところから次の動作をする「形」が多いのですが、同形態の武器におけるような約束事ではなく、動くだけの理由が隠されています。ただし、これは口伝であるため、普及形である全剣連杖道の範囲では分かり難いところでもありますが、広範な学びと稽古を通して、それぞれの形や術技の根底にはこうした意味もあることを心に留めていただきたいと思います。工夫と気付きを要するところでもあります。
杖道における打太刀の役割
杖の相手の剣は何流と決まっていたわけではなく、何流かもわからない、だからこそ杖をやる者は、太刀遣いの勉強が不可欠だったのです。まして現代剣道だけが相手ではありません。
また、打太刀の特性も、特に八相の構えが全剣連の八相が手元の低い八相なのに対し、古伝においては一気に太刀風鋭く切り込む大八相(別名「耳構え」)です。さらに、定められた所しか叩かない現代剣道と違い、切れる所を切る多様な剣なのです。
杖道における杖と太刀の関係は、「打太刀は師の位」と言われ、剣が杖を育てる稽古体系であり、太刀遣いがだめなら、杖も真の術技を体現できません。
そのため、太刀遣いは、何流にも共通する原則的な遣い方を幅広く学び、遣えねばなりません。当然ながら現代剣道ではほとんど使わなくなった回刀技術にも習熟する必要があるのです。
ところが、現実には現在の杖道の高段者には現代剣道の経験も少なく、古流の剣術についても「形」は知っていても、基礎の基礎すら知らない者も多くなったのが現状と言えそうです。
以上本日は、杖道おける太刀遣い太刀のあり方についてを記載してみました。
杖道の稽古の仕方の、ご参考の一助になれば幸せです。
タグ :杖道の太刀
2012年05月31日
日本武道(杖,居合)バンコク稽古会の開催
武道稽古会を開催します。
一 日 時 平成24年6月3日(日) 午後六時から午後九時
二 場 所 バンコク日本人会本館 第3会議室
三 稽古内容 (今回は、杖道の稽古をしてみたいと思います。)
〔杖道〕
(一) 準備体操・歩法 (詳細省略)
(二) 杖基本(開足) 逆手打,本手打,引落打,返し突,繰付
(三) 単独動作
基本十二本 ・一本目 本手打~・十二本目 体外打
… 全剣連「杖道解説」23頁~83頁
(四) 制定形
・一本目 着 杖(つきづえ)
・二本目 水 月(すいげつ)
※ 参加者各自ご用意いただきたい「武具」は、
一、 杖
二、 刀
三、 木刀(プラ鞘があれば一緒に)
以上です。楽しく稽古をしましょう。よろしくお願いいたします。
一 日 時 平成24年6月3日(日) 午後六時から午後九時
二 場 所 バンコク日本人会本館 第3会議室
三 稽古内容 (今回は、杖道の稽古をしてみたいと思います。)
〔杖道〕
(一) 準備体操・歩法 (詳細省略)
(二) 杖基本(開足) 逆手打,本手打,引落打,返し突,繰付
(三) 単独動作
基本十二本 ・一本目 本手打~・十二本目 体外打
… 全剣連「杖道解説」23頁~83頁
(四) 制定形
・一本目 着 杖(つきづえ)
・二本目 水 月(すいげつ)
※ 参加者各自ご用意いただきたい「武具」は、
一、 杖
二、 刀
三、 木刀(プラ鞘があれば一緒に)
以上です。楽しく稽古をしましょう。よろしくお願いいたします。
タグ :稽古会
2012年05月19日
バンコク武道(杖,居合)稽古
武道稽古会を開催します。
一 日 時 平成24年5月20日(日) 午後六時から午後九時
二 場 所 バンコク日本人会本館 会議室
三 稽古内容
〔杖道〕
(一) 歩 法 (詳細省略)
(二) 礼 法 座礼 立礼 (詳細省略)
… 全剣連「杖道解説」三頁
(三) 姿 勢 ・立杖 ・提杖
… 全剣連「同上解説」四頁
・杖の構え方
・常の構え
・本手の構え(右本手,左本手)
・逆手の構え(右逆手,左逆手)
・引落の構え(右引落,左引落)
素振り ~ 逆手打,本手打,引落打 … … ~
(四) 基 本 ・一本目 本手打~ ・十二本目 体外打
… 全剣連「同上解説」十五頁
(五) 太刀の構え方および解き方
… 全剣連「同上解説」九頁
・提刀姿勢 ・携刀姿勢 ・帯刀姿勢
・太刀の構え方(詳細省略)
… 全剣連「同上解説」十一頁
・構えの解き方
… 全剣連「同上解説」十三頁
(六)太刀の刀法
・切り付け
・切り下ろし
(七)形
・一本目 着 杖(つきづえ)
・二本目 水 月(すいげつ)
〔居合道〕
(一) 作 法 (詳細省略)
… 全剣連「居合解説」六頁
(二) 刀のにぎり方
(三) 刀の振り方
(四) 横一文字の抜きつけ
… 「居合道虎の巻 その弐」二十二頁
(五) 納刀(段階的な納刀練習)
…「同上」四十六頁
(六) 正座での抜き付け
(七) 正座での切り下ろし
…「同上」三十五頁
(八) 太刀の振りかぶり方
… 全剣連「居合解説」十三頁
(九) 居り敷からの縦血振り
… 「居合道虎の巻 その弐」三十一頁
(十) 横血振り
…「同上」四十四頁
(十一)切り返し
…「同上」五十四頁
(十二)全剣制定居合
・一本目 前(まえ)
上記は、各「道」における「基本中の基本」でありますので、「気」を入れてしっかりと稽古をしていきたいと思っています。
なお、当日若干の変更もあるかもしれませんが、どうかご了承をください。
参加者各自ご用意いただきたい「武具」は、
一、 杖
二、 刀
三、 木刀(プラ鞘があれば一緒に)
以上です。楽しくがんばって稽古をしましょう。よろしくお願いいたします。
一 日 時 平成24年5月20日(日) 午後六時から午後九時
二 場 所 バンコク日本人会本館 会議室
三 稽古内容
〔杖道〕
(一) 歩 法 (詳細省略)
(二) 礼 法 座礼 立礼 (詳細省略)
… 全剣連「杖道解説」三頁
(三) 姿 勢 ・立杖 ・提杖
… 全剣連「同上解説」四頁
・杖の構え方
・常の構え
・本手の構え(右本手,左本手)
・逆手の構え(右逆手,左逆手)
・引落の構え(右引落,左引落)
素振り ~ 逆手打,本手打,引落打 … … ~
(四) 基 本 ・一本目 本手打~ ・十二本目 体外打
… 全剣連「同上解説」十五頁
(五) 太刀の構え方および解き方
… 全剣連「同上解説」九頁
・提刀姿勢 ・携刀姿勢 ・帯刀姿勢
・太刀の構え方(詳細省略)
… 全剣連「同上解説」十一頁
・構えの解き方
… 全剣連「同上解説」十三頁
(六)太刀の刀法
・切り付け
・切り下ろし
(七)形
・一本目 着 杖(つきづえ)
・二本目 水 月(すいげつ)
〔居合道〕
(一) 作 法 (詳細省略)
… 全剣連「居合解説」六頁
(二) 刀のにぎり方
(三) 刀の振り方
(四) 横一文字の抜きつけ
… 「居合道虎の巻 その弐」二十二頁
(五) 納刀(段階的な納刀練習)
…「同上」四十六頁
(六) 正座での抜き付け
(七) 正座での切り下ろし
…「同上」三十五頁
(八) 太刀の振りかぶり方
… 全剣連「居合解説」十三頁
(九) 居り敷からの縦血振り
… 「居合道虎の巻 その弐」三十一頁
(十) 横血振り
…「同上」四十四頁
(十一)切り返し
…「同上」五十四頁
(十二)全剣制定居合
・一本目 前(まえ)
上記は、各「道」における「基本中の基本」でありますので、「気」を入れてしっかりと稽古をしていきたいと思っています。
なお、当日若干の変更もあるかもしれませんが、どうかご了承をください。
参加者各自ご用意いただきたい「武具」は、
一、 杖
二、 刀
三、 木刀(プラ鞘があれば一緒に)
以上です。楽しくがんばって稽古をしましょう。よろしくお願いいたします。
タグ :稽古会
2012年04月13日
日日之好日
地方公務員を卒業して、あっという間に4年が過ぎ去ってしまった。
今は、元の職場とは没交渉ですが、以前は、職場の後輩から職場の現状等の情報が時々寄せられていました。
ここで気になりますのは、私よりも若い人が、退職して直ぐにお亡くなりになっていることです。
寂しくも有りまた、なんか世の無常が身に染みてきます。
先月、とある事から暫し「武道」の記事投稿を控えようと考えて、約1ヶ月が経とうとしています。
いろいろと試行錯誤や夢想をし、また、毎朝敢行の「座禅行」にも取り組んでもみました。
ぼんやりとでは有りますが、光明がさしてきました。
やはり自己の思うままに、風に吹かれる如く,水の流れる如く身を任せ、武道の修行に邁進していく事といたします。
また、武道に関連します記事を発信していきたいと考えます。
よろしくお願いいたします。
今は、元の職場とは没交渉ですが、以前は、職場の後輩から職場の現状等の情報が時々寄せられていました。
ここで気になりますのは、私よりも若い人が、退職して直ぐにお亡くなりになっていることです。
寂しくも有りまた、なんか世の無常が身に染みてきます。
先月、とある事から暫し「武道」の記事投稿を控えようと考えて、約1ヶ月が経とうとしています。
いろいろと試行錯誤や夢想をし、また、毎朝敢行の「座禅行」にも取り組んでもみました。
ぼんやりとでは有りますが、光明がさしてきました。
やはり自己の思うままに、風に吹かれる如く,水の流れる如く身を任せ、武道の修行に邁進していく事といたします。
また、武道に関連します記事を発信していきたいと考えます。
よろしくお願いいたします。
タグ :日記
Posted by 阿羅漢 at
19:57
│Comments(1)
2012年02月20日
武道修行記事投稿の小休止
我、思う故に我、あり。
自分は、決して「他人」ではありえない。
今、自分が進もうとする「道」が、見えてきません。
霞,霧,闇夜、はたまた、何か得体の知れない「もの」中にでも、吸い込まれでもしたかのようです。
「座禅」を集中してやりたいと思います。
“心こそ 心まどわすこころなり
心にこころ 心まどわすな”
心を鍛錬し直してみたいと考えています。
武道の記事投稿を暫し休憩をします。
自分は、決して「他人」ではありえない。
今、自分が進もうとする「道」が、見えてきません。
霞,霧,闇夜、はたまた、何か得体の知れない「もの」中にでも、吸い込まれでもしたかのようです。
「座禅」を集中してやりたいと思います。
“心こそ 心まどわすこころなり
心にこころ 心まどわすな”
心を鍛錬し直してみたいと考えています。
武道の記事投稿を暫し休憩をします。
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23:31
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2012年02月07日
制定居合十本目「四方切り」(しほうぎり)
「四方切り」は、立ち技の六本目になります。制定居合の術技も残り三本となってきました。
この、四方切りは、七本目の」三方切り」と同じ様に、前後左右へ身体を動かしていきます。
では、居合道術技「十本目・四方切り」をご紹介してまいります。
一本目 「前」 の敵に対しての技。居合の全てがこの技に凝縮されて
います。
二本目は、「後ろ」 の敵を想定した技です。
三本目は、「受け流し」 敵を左に想定しての技です。
四本目「柄当て」 居合腰から前後の敵を制する技です。
五本目「袈裟切り」 立ち技になります。 逆袈裟に切り上げ、返す刀
で袈裟に切り下ろす技です。
六本目「諸手突き太>」(もろてづき) 前後三人の敵を想定しての術技で
す。
七本目「三方切り」(さんぽうぎり) 前と左右の敵を想定しての術技
です。
八本目「顔面当て」(がんめんあて) 前後二人の敵を想定しての術技
です。
九本目「添え手突き」(そえてづき) 平行に歩行しています敵を想定
しての術技です。
十本目「四方切り」(しほうぎり) 四方の敵を想定しての術技です。
〔要義〕
前進中、四方の敵の殺気を感じ、機先を制してまず刀を抜こうとする右斜め前の敵の右こぶしに「柄当て」し、つぎに、左斜め後ろの敵の「水月」を突き刺し、さらに、右斜め前の敵、続いて、右斜め後ろの敵、そして、左斜め前の敵をそれぞれ真っ向から切り下ろして勝つ。
(動作)
1、右足より正面に向って前進し、左足を踏み出したとき、右
斜め前の敵に振り向くと同時に刀に両手をかける。鞘ごと突
き出して、刀を抜こうとしている敵の右こぶしを右足を踏み
込むと同時に強く柄の平で打つ。
2、直ちに左手で「鞘引き」しながら左斜め後ろの敵に振り向き、
切っ先が鯉口から放れると同時に、左回りに回って敵に対し
「一重身」となり、「ものうち」付近の「棟を左乳に当てる」。
間をおくことなく左足を踏み込むと同時に左手を内側にしぼり
ながら右肘を伸ばして敵の「水月」を突き刺す。
3、左斜め前の敵に振り向き、刀を引き抜きながら頭上に振りか
ぶると同時に左手を柄にかけ、右足を軸に右回りに回って敵に
向き直ると同時に左足を踏み込んで真っ向から切り下ろす。
4、右斜め後ろの敵に振り向きながら左足を軸にして受け流しに
振りかぶり、敵に向き直ると同時に右足を踏み込んで真っ向か
ら切り下ろす。
5、後ろ(左斜め前)の敵に振り向きながら右足を軸にして左回
りに回り、左足を左に踏みかえて脇構えになりながら受け流し
に振りかぶり、右足を踏み込むと同時に左斜め前の敵を真っ向
から切り下ろす。
6、右足を引きながら諸手左上段の構えとなって残心を示す。
7、左足を引きながら左手を柄からはなして左帯におくると同時に
「袈裟に振り下ろしての血振り」をする。
8、左手を左帯から鯉口におくり、そのままの姿勢で「納刀」する。
9、後ろ足を前足にそろえ、右手を柄からはなして「帯刀姿勢」と
なり、左足より退いて元の位置にもどる。
これが、十本目「四方切り」です。
今回の敵は四方です。前進中に囲まれます。先ず、右斜め前の敵、次に左斜め後ろの敵、そして、右斜め後ろ、最後は、左斜め前の敵、と四方に仮想敵を想定しての術技練習となります。
杖道の稽古においてもそうですが、「鏡」を使用しての稽古が大切ではないかと思います。
特に、形武道は、自分の体勢が今どのような形をとっているのか、これが大きな要点ではないかと思います。姿、形を見ることも無くただ単純に、「刀」を抜き技を行い刀を納めていては、今の自分の体勢が全然判らず、良いところを伸ばす事も出来ず、悪い点が何時まで経っても改善されない(進歩が無い)稽古に終始してしまうと思います。
居合の術技で大切なことは、体の捌きを行います前に、「仮想敵」に顔を向ける行為が必要であると思います。敵の状態を先ず確認した上で、受け流し等を行いながら体を捌く。
敵の意識を如何に持ち、次に如何に素早く敵に向き直りながら攻撃を素早く行っていくか、矢張り、体の捌きを充分に研究する必要があるかと思います。
最後に、本日もいつもの言葉です、
『居合道は「演舞」ではありません。常に仮想敵を意識した上で反復練習あるのみです。いい汗は流した分だけ結果に反映されてきます。それが、動作や所作また全体の姿や形に現れてきます。練習は嘘はつきません。』
今日は十本目「四方切り」(しほうぎり)でした。
次回は、十一本目「総切り」(そうぎり)です。
この、四方切りは、七本目の」三方切り」と同じ様に、前後左右へ身体を動かしていきます。
では、居合道術技「十本目・四方切り」をご紹介してまいります。
一本目 「前」 の敵に対しての技。居合の全てがこの技に凝縮されて
います。
二本目は、「後ろ」 の敵を想定した技です。
三本目は、「受け流し」 敵を左に想定しての技です。
四本目「柄当て」 居合腰から前後の敵を制する技です。
五本目「袈裟切り」 立ち技になります。 逆袈裟に切り上げ、返す刀
で袈裟に切り下ろす技です。
六本目「諸手突き太>」(もろてづき) 前後三人の敵を想定しての術技で
す。
七本目「三方切り」(さんぽうぎり) 前と左右の敵を想定しての術技
です。
八本目「顔面当て」(がんめんあて) 前後二人の敵を想定しての術技
です。
九本目「添え手突き」(そえてづき) 平行に歩行しています敵を想定
しての術技です。
十本目「四方切り」(しほうぎり) 四方の敵を想定しての術技です。
〔要義〕
前進中、四方の敵の殺気を感じ、機先を制してまず刀を抜こうとする右斜め前の敵の右こぶしに「柄当て」し、つぎに、左斜め後ろの敵の「水月」を突き刺し、さらに、右斜め前の敵、続いて、右斜め後ろの敵、そして、左斜め前の敵をそれぞれ真っ向から切り下ろして勝つ。
(動作)
1、右足より正面に向って前進し、左足を踏み出したとき、右
斜め前の敵に振り向くと同時に刀に両手をかける。鞘ごと突
き出して、刀を抜こうとしている敵の右こぶしを右足を踏み
込むと同時に強く柄の平で打つ。
2、直ちに左手で「鞘引き」しながら左斜め後ろの敵に振り向き、
切っ先が鯉口から放れると同時に、左回りに回って敵に対し
「一重身」となり、「ものうち」付近の「棟を左乳に当てる」。
間をおくことなく左足を踏み込むと同時に左手を内側にしぼり
ながら右肘を伸ばして敵の「水月」を突き刺す。
3、左斜め前の敵に振り向き、刀を引き抜きながら頭上に振りか
ぶると同時に左手を柄にかけ、右足を軸に右回りに回って敵に
向き直ると同時に左足を踏み込んで真っ向から切り下ろす。
4、右斜め後ろの敵に振り向きながら左足を軸にして受け流しに
振りかぶり、敵に向き直ると同時に右足を踏み込んで真っ向か
ら切り下ろす。
5、後ろ(左斜め前)の敵に振り向きながら右足を軸にして左回
りに回り、左足を左に踏みかえて脇構えになりながら受け流し
に振りかぶり、右足を踏み込むと同時に左斜め前の敵を真っ向
から切り下ろす。
6、右足を引きながら諸手左上段の構えとなって残心を示す。
7、左足を引きながら左手を柄からはなして左帯におくると同時に
「袈裟に振り下ろしての血振り」をする。
8、左手を左帯から鯉口におくり、そのままの姿勢で「納刀」する。
9、後ろ足を前足にそろえ、右手を柄からはなして「帯刀姿勢」と
なり、左足より退いて元の位置にもどる。
これが、十本目「四方切り」です。
今回の敵は四方です。前進中に囲まれます。先ず、右斜め前の敵、次に左斜め後ろの敵、そして、右斜め後ろ、最後は、左斜め前の敵、と四方に仮想敵を想定しての術技練習となります。
杖道の稽古においてもそうですが、「鏡」を使用しての稽古が大切ではないかと思います。
特に、形武道は、自分の体勢が今どのような形をとっているのか、これが大きな要点ではないかと思います。姿、形を見ることも無くただ単純に、「刀」を抜き技を行い刀を納めていては、今の自分の体勢が全然判らず、良いところを伸ばす事も出来ず、悪い点が何時まで経っても改善されない(進歩が無い)稽古に終始してしまうと思います。
居合の術技で大切なことは、体の捌きを行います前に、「仮想敵」に顔を向ける行為が必要であると思います。敵の状態を先ず確認した上で、受け流し等を行いながら体を捌く。
敵の意識を如何に持ち、次に如何に素早く敵に向き直りながら攻撃を素早く行っていくか、矢張り、体の捌きを充分に研究する必要があるかと思います。
最後に、本日もいつもの言葉です、
『居合道は「演舞」ではありません。常に仮想敵を意識した上で反復練習あるのみです。いい汗は流した分だけ結果に反映されてきます。それが、動作や所作また全体の姿や形に現れてきます。練習は嘘はつきません。』
今日は十本目「四方切り」(しほうぎり)でした。
次回は、十一本目「総切り」(そうぎり)です。
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2012年01月23日
タイ武術と出会った
1月19日(木)は、4回目となるコンケ-ン大学訪問でした。
今回の訪問は大学での「日本武道」伝播、という目的以外に、友人からいただいた連絡、「家の近くの子供達が、凄く、日本の侍に興味を持っている。特に、刀にも。」との知らせを受けていましたので、両方が歩み寄った距離(約百キロ)のコンケ-ンにてお会いすることになり、それが、19日となったわけです。
早速会場にて、私の武道の演武が終了しましました後で見せていただきました。
タイの子供達は、知人の近所にて、「コンニャーウ」(タイ国楽団か)の一員でありまた、見せてくれまました武術は、古式ムエタイやクラビ・クラボ-ン(タイ刀二刀流)、また、フォン・マイコ-ン(木の棒)を使用しての武術でした。
以前からの私の知識の中では、北タイではこれらの「タイ古式武術」(ランナー武術)が今も受継がれ、先生がいて教えているとは調べて知っていましたが、私の住んでいますこの「イサーン地方」にも「これらこのタイ古式武術」を、必ず使う人がいるものと信じていましたが、20代の若い子供達から見せていただくとは思いませんでした。
二人が向き合い(私の木刀で)激しく、何故か知らないが同じ様に上段を何度も何度も打ち合っていました。連れてきてくれました知人が言っていました、「学校に(タイの)刀が有るけれど、どれもこれも、ぼこぼこです。」なるほどこれでは(鉄の)刀も刃が痛んで使い物にはならないでしょう。(事実、帰宅してから二人が使用した木刀を見ましたら、刃の方がぼこぼこの状態になっていました。)
練習をしていけば、道具(武器)も痛みますのでこれは仕方のない結果ですが、子供達の真剣な練習を見させてもらって、これは、今年の「願い」の一つが近くで叶うかなと思いました。
私は数年前に計画を立てました。タイに住んでいるのですから是非、タイ国の武術を練習してみたいと、そして今年の「願い」の一つにこのことを掲げていました。
しかし、それが、北タイ(チェンマイ)まで行かなければ教えていただけないかなと思っていましたが、なんと、同じ地方で練習が可能となれば、渡りに船です。子供達に私の日本武道を教えながら、私は、タイの古式武術を教えていただく。宿屋は、今回の仲介役を買ってくれました友人宅に何とかお願いしまして、数日間練習をして見たいと思っています。
今年は、私の「道」に、一つの大きな幅が出来そうな気がしてきました。
タイ国武術の練習は、平成24年度(皇紀弐千六百七拾弐年)の大きな目標の一つです。
今回の訪問は大学での「日本武道」伝播、という目的以外に、友人からいただいた連絡、「家の近くの子供達が、凄く、日本の侍に興味を持っている。特に、刀にも。」との知らせを受けていましたので、両方が歩み寄った距離(約百キロ)のコンケ-ンにてお会いすることになり、それが、19日となったわけです。
早速会場にて、私の武道の演武が終了しましました後で見せていただきました。
タイの子供達は、知人の近所にて、「コンニャーウ」(タイ国楽団か)の一員でありまた、見せてくれまました武術は、古式ムエタイやクラビ・クラボ-ン(タイ刀二刀流)、また、フォン・マイコ-ン(木の棒)を使用しての武術でした。
以前からの私の知識の中では、北タイではこれらの「タイ古式武術」(ランナー武術)が今も受継がれ、先生がいて教えているとは調べて知っていましたが、私の住んでいますこの「イサーン地方」にも「これらこのタイ古式武術」を、必ず使う人がいるものと信じていましたが、20代の若い子供達から見せていただくとは思いませんでした。
二人が向き合い(私の木刀で)激しく、何故か知らないが同じ様に上段を何度も何度も打ち合っていました。連れてきてくれました知人が言っていました、「学校に(タイの)刀が有るけれど、どれもこれも、ぼこぼこです。」なるほどこれでは(鉄の)刀も刃が痛んで使い物にはならないでしょう。(事実、帰宅してから二人が使用した木刀を見ましたら、刃の方がぼこぼこの状態になっていました。)
練習をしていけば、道具(武器)も痛みますのでこれは仕方のない結果ですが、子供達の真剣な練習を見させてもらって、これは、今年の「願い」の一つが近くで叶うかなと思いました。
私は数年前に計画を立てました。タイに住んでいるのですから是非、タイ国の武術を練習してみたいと、そして今年の「願い」の一つにこのことを掲げていました。
しかし、それが、北タイ(チェンマイ)まで行かなければ教えていただけないかなと思っていましたが、なんと、同じ地方で練習が可能となれば、渡りに船です。子供達に私の日本武道を教えながら、私は、タイの古式武術を教えていただく。宿屋は、今回の仲介役を買ってくれました友人宅に何とかお願いしまして、数日間練習をして見たいと思っています。
今年は、私の「道」に、一つの大きな幅が出来そうな気がしてきました。
タイ国武術の練習は、平成24年度(皇紀弐千六百七拾弐年)の大きな目標の一つです。
タグ :タイ
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17:43
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2011年11月15日
武道修行と日常生活
以前私は、「武道修行の心持ち(意識の持ち方)」という題名にて記事を投稿させていただきました。
本日もこの題の第二を投稿させていただきます。
練習場,道場においての稽古中の態度や振る舞いなどの所作と尊い言動が、そこを一歩出た後の、日常における生活態度や発する言葉に食い違いが往々にして起きています。何故でしょうか。
武術の鍛錬,稽古を長年繰り返し行っていきますとその技に精通し、その技に対しては、そこそこの技量を持つこととなり、また、長年の実績から組織団体の中で重要な位置を占め、「先生」と呼ばれ他に対する影響力をも持つようになってきます。
さて、武道修行は「技」の鍛錬ばかりではない、ことをこれら先生と呼ばれる方々の中で何人が自覚なさっていますでしょうか。
往々にして、自分が稽古をしてきた「技」だけを、集まってきた人達に対して教えるだけが先行してしまいがちではないでしょうか。
これでは、自分と同じ動作を行う者が出来ますが、そこには「魂」の存在が確認できません。
「武道」です。「道」です。
「武術」の稽古ではない筈です。
矢張り、武としての技術修得に合せて、「道」を同時並行的に参集し修行する人達を感化していく必要性があるのではないでしょうか。
この「技」の修行と合せた「魂」の教化が「道」を歩み始めた人達の「指針」となってくる筈です。
武の鍛錬には技の正確性を学ぶことと同時に大切なことは、道場内における「武」修行者としての態度も、求められてくるのではないのでしょうか。
そして、道場内で培った態度,所作又は言動、これらが矢張り日常生活にごくごく自然に、自覚しない中で体現されてこそ「武」修行者といえるのではないのでしょうか。
道場から一歩外に出ても、道場内での「道」の修行が滲み出てくるような、そのような日常生活を送りたいものですし、そのことが出来てはじめて「武道」を鍛錬している自覚というものが実感できるものではないのでしょうか。
この様な気持ちを心に持ちながら、日々の鍛錬に精を出しています。
ごくごく自然体で。水の流れる如く。
流れに逆らわずに、浮き草のように流れに身を任せ。
力を入れず、程ほどの力量にて。
そして、一歩一歩前進あるのみです。自分の探す「道」を求めて歩み続けるだけです。
本日もこの題の第二を投稿させていただきます。
練習場,道場においての稽古中の態度や振る舞いなどの所作と尊い言動が、そこを一歩出た後の、日常における生活態度や発する言葉に食い違いが往々にして起きています。何故でしょうか。
武術の鍛錬,稽古を長年繰り返し行っていきますとその技に精通し、その技に対しては、そこそこの技量を持つこととなり、また、長年の実績から組織団体の中で重要な位置を占め、「先生」と呼ばれ他に対する影響力をも持つようになってきます。
さて、武道修行は「技」の鍛錬ばかりではない、ことをこれら先生と呼ばれる方々の中で何人が自覚なさっていますでしょうか。
往々にして、自分が稽古をしてきた「技」だけを、集まってきた人達に対して教えるだけが先行してしまいがちではないでしょうか。
これでは、自分と同じ動作を行う者が出来ますが、そこには「魂」の存在が確認できません。
「武道」です。「道」です。
「武術」の稽古ではない筈です。
矢張り、武としての技術修得に合せて、「道」を同時並行的に参集し修行する人達を感化していく必要性があるのではないでしょうか。
この「技」の修行と合せた「魂」の教化が「道」を歩み始めた人達の「指針」となってくる筈です。
武の鍛錬には技の正確性を学ぶことと同時に大切なことは、道場内における「武」修行者としての態度も、求められてくるのではないのでしょうか。
そして、道場内で培った態度,所作又は言動、これらが矢張り日常生活にごくごく自然に、自覚しない中で体現されてこそ「武」修行者といえるのではないのでしょうか。
道場から一歩外に出ても、道場内での「道」の修行が滲み出てくるような、そのような日常生活を送りたいものですし、そのことが出来てはじめて「武道」を鍛錬している自覚というものが実感できるものではないのでしょうか。
この様な気持ちを心に持ちながら、日々の鍛錬に精を出しています。
ごくごく自然体で。水の流れる如く。
流れに逆らわずに、浮き草のように流れに身を任せ。
力を入れず、程ほどの力量にて。
そして、一歩一歩前進あるのみです。自分の探す「道」を求めて歩み続けるだけです。
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15:02
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2011年10月08日
武道「競技」の必要性
辞書によりますと、「競技」とは
『技術、特に運動の腕まえの優劣をきそうこと』,『競争』とあります。
また、「ウィキペディア」によりますと、
『競技(きょうぎ)とは、一定のルールに従い、争う分野。または、遊戯(ゲーム)。競い合い優劣を決めることをテーマとしたものを競技会(大会)という。』
と記載してあります。
では、武道にこの競技「あらそい・きょうそう」することが必要なのでしょうか。また、武道の修行の中で優劣を決めること自体よいことなのでしょうか。
私は、「否」です。武道の究極の目的は他との「調和」であると思っております。
その前提となりますのは、居合道でいいますところの、「鞘の内」に言い表されていますように、「戦わずして勝つことが“善”である。」と思います。
今、正に敵対する時に、太刀を抜かずに敵(相手)を屈服させるには、それ相当の胆力と太刀技量の高度で冴えたるもの、を持ていないと出来ないものと思慮しますが、争わずにことが成就できえればそれは素晴らしいことであると思います。
今の世の中を見ますと、この大会で「優勝」、先日のあの大会で「準優勝」と、自己の「技」の技量の程をひらけて、さも「その道」において凄腕を持ているのだぞ、とばかりに披瀝している人がなんと多いことか。
競技そのものが好き、他との競争がいたって大好きな人には、年に1度の「〇〇大会」が一日千秋の思いで、稽古にも熱が入り、なんとも待ち遠しいことでしょうが、武道の稽古にはそれも、一つの自己表現方法としては必要なことだとは感じますが、果たして如何なものでしょうか。
不適切な例を出して申し訳が無いかもしれませんが、「剣道」をみてください。如何でしょうか。
建前上は、「礼に始まり 礼に終わる」といいながら、それが実行されていますか。
武道の修行者は、道場や稽古場所だけが修行の場、だけではないことを認識すべきであると思っています。修行者は実社会、実生活の中においても武道修行が行われ、生かされて、いなければならないと感じます。
「道場訓」を大きな声で唱和します、内容がさも全部判ったような顔をしていますが、一歩稽古場を離れますと修行のことは蚊帳の外、言っていることとやっていることは矛盾だらけ。
如何でしょう。
ある方が言っておられました。「言うことは簡単だが、その実行は難しい。」と。
「言うはやさし されど実行は難し。」
「言うのは6歳の子どもでもできる だけど実行することは80歳になっても難しい。」
とのことをいっています。
しかし、武道修行者であり、尚且つ、指導者たるものが、道場は道場、稽古が終わると、「礼」もなんのその。
如何でしょうか。稽古の方法も「競技」が先行し、その結果、強くさえあればよい、「礼」を欠いても相手に勝てさえすればよい、という風潮に押し流される傾向になてくると思います。
私は、武道に「競技」は不必要と考えています。武道の本質をよく見際ていけば、「競技」他と競うのではなく自己を鍛え磨くことこそが、先行すべきと考えます。
自己の精神を鍛え磨き他と調和のできる人間を育て、争うのではなく協調精神を涵養してこそが「武道」のあるべき姿であり、「武道」の稽古によって生み出していくべきもの、であると思いますが如何でしょう。
人は人によって支えられ人によって生かされています。そのことを充分に認識すべきです。あい争うのではなく協調し、助け合う精神こそが大切であり、これが「武」の心ではないかと思います。
武道に「競技」は必要はありません。
「競技」がどうしても必要であれば、それは、「武道」ではなく「運動」です。「道」は必要がありありませんので、ただ単純に相手に「勝つ」だけを訓練・練習を積めばよいと心得ます、如何でしょうか。
「礼」を尽くす必要もありません。手段は選ばずに、ただ、「勝利」するのみです。
でも、私は、結果は空しいものであると思いますが、如何でしょうか。
『技術、特に運動の腕まえの優劣をきそうこと』,『競争』とあります。
また、「ウィキペディア」によりますと、
『競技(きょうぎ)とは、一定のルールに従い、争う分野。または、遊戯(ゲーム)。競い合い優劣を決めることをテーマとしたものを競技会(大会)という。』
と記載してあります。
では、武道にこの競技「あらそい・きょうそう」することが必要なのでしょうか。また、武道の修行の中で優劣を決めること自体よいことなのでしょうか。
私は、「否」です。武道の究極の目的は他との「調和」であると思っております。
その前提となりますのは、居合道でいいますところの、「鞘の内」に言い表されていますように、「戦わずして勝つことが“善”である。」と思います。
今、正に敵対する時に、太刀を抜かずに敵(相手)を屈服させるには、それ相当の胆力と太刀技量の高度で冴えたるもの、を持ていないと出来ないものと思慮しますが、争わずにことが成就できえればそれは素晴らしいことであると思います。
今の世の中を見ますと、この大会で「優勝」、先日のあの大会で「準優勝」と、自己の「技」の技量の程をひらけて、さも「その道」において凄腕を持ているのだぞ、とばかりに披瀝している人がなんと多いことか。
競技そのものが好き、他との競争がいたって大好きな人には、年に1度の「〇〇大会」が一日千秋の思いで、稽古にも熱が入り、なんとも待ち遠しいことでしょうが、武道の稽古にはそれも、一つの自己表現方法としては必要なことだとは感じますが、果たして如何なものでしょうか。
不適切な例を出して申し訳が無いかもしれませんが、「剣道」をみてください。如何でしょうか。
建前上は、「礼に始まり 礼に終わる」といいながら、それが実行されていますか。
武道の修行者は、道場や稽古場所だけが修行の場、だけではないことを認識すべきであると思っています。修行者は実社会、実生活の中においても武道修行が行われ、生かされて、いなければならないと感じます。
「道場訓」を大きな声で唱和します、内容がさも全部判ったような顔をしていますが、一歩稽古場を離れますと修行のことは蚊帳の外、言っていることとやっていることは矛盾だらけ。
如何でしょう。
ある方が言っておられました。「言うことは簡単だが、その実行は難しい。」と。
「言うはやさし されど実行は難し。」
「言うのは6歳の子どもでもできる だけど実行することは80歳になっても難しい。」
とのことをいっています。
しかし、武道修行者であり、尚且つ、指導者たるものが、道場は道場、稽古が終わると、「礼」もなんのその。
如何でしょうか。稽古の方法も「競技」が先行し、その結果、強くさえあればよい、「礼」を欠いても相手に勝てさえすればよい、という風潮に押し流される傾向になてくると思います。
私は、武道に「競技」は不必要と考えています。武道の本質をよく見際ていけば、「競技」他と競うのではなく自己を鍛え磨くことこそが、先行すべきと考えます。
自己の精神を鍛え磨き他と調和のできる人間を育て、争うのではなく協調精神を涵養してこそが「武道」のあるべき姿であり、「武道」の稽古によって生み出していくべきもの、であると思いますが如何でしょう。
人は人によって支えられ人によって生かされています。そのことを充分に認識すべきです。あい争うのではなく協調し、助け合う精神こそが大切であり、これが「武」の心ではないかと思います。
武道に「競技」は必要はありません。
「競技」がどうしても必要であれば、それは、「武道」ではなく「運動」です。「道」は必要がありありませんので、ただ単純に相手に「勝つ」だけを訓練・練習を積めばよいと心得ます、如何でしょうか。
「礼」を尽くす必要もありません。手段は選ばずに、ただ、「勝利」するのみです。
でも、私は、結果は空しいものであると思いますが、如何でしょうか。
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19:29
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2011年10月05日
泰国で「日本刀」と出会う。
泰国で「日本刀」と出会う。この「日本刀」を私は、(「シャムジープン刀」と命名。)
最初の出会いは、5年前の日本。夕方妻がテレビを観ていたテレビに「タイで日本刀を見つけた。」との報道番組が目に飛び込んできた。私が観たのは番組全体の最後の部分であったが、タイで日本刀を製造している、という事実が私の頭の中に強く入力された。
この放送された番組の内容の詳細が知りたく、このあと調べをはじめた。
テレビ会社の「テレビ朝日」にメールを送信してみた。第1回目、「梨の礫」。約半月待ってみた。1ヶ月経っても何の連絡も来ない。
業を煮やしてテレビ局「広報担当」宛てに手紙(封書)をしたためてみた。第2回目、これに関しても待てど暮らせど何の音沙汰もなしのまま。
日々の暮らしに追い立てられてこの件は、暫し、頭の片隅に追いやられる形となった。
半分諦めと、半分はどうしても会ってみたい(素敵な異性との出会いを期待するようなそんな気分。)気持ちが2年以上過ぎた。
3年前からタイに居住したので、妻に「シャムジープン刀」は何処で作っているか、いろんな人にことあるごとに聞いてもらったが、古都「アユタヤ」辺りではないか、という答が返ってくるだけで、実態は不明のままであった。
また、私も証拠にもなくテレビ会社に経過を詳細に記載しメールを送信してみた。同じ事であった。(何とも空しい遣る瀬無さ。)呆れてよけい空しさだけが心に残った。
しかし、また偶然は起こりえるものです。
約1ヶ月前、昼のテレビを観ていた妻が、「タイで刀を作っているのをやってるよ。」との一言で、テレビに飛んで行きました。目がテレビに釘付けとなりました。
正しく、日本で観た「日本刀(シャムジープン刀)製作現場」からの中継か録画でした。連絡先連絡先と観ている間の最終に、連絡先電話番号が流れました。これを確実に記録し、9月27日(火)に事前に連絡を取り付け、バンコク郊外の「シャムジープン刀」製作所に出かけました。
約1時間半車を飛ばして目的地に到着しました。
最初に、「シャムジープン刀」の第一印象を書きます。悪い表現かもしれませんが、「浅草寺門前商店街」の『外人客向けの土産品』の感じを受けました。
それもそのはずです、話を聞いていると販路先(お得意さん)は、ユーロとのことで納得をしました。
日本人向けの刀剣ではなく、外国人向けの「日本刀」製作販売なのでした。
特に、製作工程をはっきり確認したわけではないので断定はできかねますが、(起業者が元、鉄工屋出身とのこと。)日本刀の一番大切な「芸術品たる所以」の(数多くの行程を経る)刀身は、延鉄鋼を加工し工夫を加え、研磨し、打ち下ろして製造しているようです。
出来上がったものは、所謂日本の銃砲刀剣類所持等取締法による「模造刀」に属していました。
日本で製作される「美術品・芸術品」としての価値の高い「日本刀」とは、その根本的な製作過程からして大きな相違がありました。しかし、刀身を除く他の付属品(鍔,ハバキ,切羽,目抜き等)は、全て手作りであり、ある意味、これらに関しては芸術品かな、と感心させられました。
鑢で細かく削る鍔の製作を見て、鞘(タイ産の加工し易い木を選んで作業)を刀身に合せて削る作業を見、この光景を見ていますと、日本の鞘造りをする職人さんと同一であると思えました。柄糸の手巻き等々製作しています現場を見学させていただきました。手作り業の素晴らしさが、私の体全体に伝わってきました。
見学後、別室に展示してあります一振りを了解を得て、素振りをしてみる事が出来ました。
全体が非常に重いです。力のある欧人向けですので、仕方のないことかもしれませんが、1200グラム以上はあったでしょうか。振り下ろす手に確かな手ごたえがありました。
一振りの価格ですが、2万バーツ(約52,000円)から注文で時期によりますが、約1ヶ月かけて製作するそうです。
日本では、銃刀法違反及び居合用として使用が認められていませんので、購入は出来かねるかもしれませんが、未だ調べていませんが、ここタイ国での所持は如何なものなのでしょうか。これから調べてみます。
できれば居合練習用に一振り(4万バーツ程度)依頼して製作していただこうかと考えています。
タイに来て3年数ヶ月、5年来の念願が叶って「シャムジープン刀」と偶然に出会うことが出来ました。感謝感謝です。
最後に一言苦言を呈したいと思います。
日本のテレビ局「テレビ朝日」視聴者を何と心得る。無責任なこと甚だしい。一言連絡が欲しかったです。
最初の出会いは、5年前の日本。夕方妻がテレビを観ていたテレビに「タイで日本刀を見つけた。」との報道番組が目に飛び込んできた。私が観たのは番組全体の最後の部分であったが、タイで日本刀を製造している、という事実が私の頭の中に強く入力された。
この放送された番組の内容の詳細が知りたく、このあと調べをはじめた。
テレビ会社の「テレビ朝日」にメールを送信してみた。第1回目、「梨の礫」。約半月待ってみた。1ヶ月経っても何の連絡も来ない。
業を煮やしてテレビ局「広報担当」宛てに手紙(封書)をしたためてみた。第2回目、これに関しても待てど暮らせど何の音沙汰もなしのまま。
日々の暮らしに追い立てられてこの件は、暫し、頭の片隅に追いやられる形となった。
半分諦めと、半分はどうしても会ってみたい(素敵な異性との出会いを期待するようなそんな気分。)気持ちが2年以上過ぎた。
3年前からタイに居住したので、妻に「シャムジープン刀」は何処で作っているか、いろんな人にことあるごとに聞いてもらったが、古都「アユタヤ」辺りではないか、という答が返ってくるだけで、実態は不明のままであった。
また、私も証拠にもなくテレビ会社に経過を詳細に記載しメールを送信してみた。同じ事であった。(何とも空しい遣る瀬無さ。)呆れてよけい空しさだけが心に残った。
しかし、また偶然は起こりえるものです。
約1ヶ月前、昼のテレビを観ていた妻が、「タイで刀を作っているのをやってるよ。」との一言で、テレビに飛んで行きました。目がテレビに釘付けとなりました。
正しく、日本で観た「日本刀(シャムジープン刀)製作現場」からの中継か録画でした。連絡先連絡先と観ている間の最終に、連絡先電話番号が流れました。これを確実に記録し、9月27日(火)に事前に連絡を取り付け、バンコク郊外の「シャムジープン刀」製作所に出かけました。
約1時間半車を飛ばして目的地に到着しました。
最初に、「シャムジープン刀」の第一印象を書きます。悪い表現かもしれませんが、「浅草寺門前商店街」の『外人客向けの土産品』の感じを受けました。
それもそのはずです、話を聞いていると販路先(お得意さん)は、ユーロとのことで納得をしました。
日本人向けの刀剣ではなく、外国人向けの「日本刀」製作販売なのでした。
特に、製作工程をはっきり確認したわけではないので断定はできかねますが、(起業者が元、鉄工屋出身とのこと。)日本刀の一番大切な「芸術品たる所以」の(数多くの行程を経る)刀身は、延鉄鋼を加工し工夫を加え、研磨し、打ち下ろして製造しているようです。
出来上がったものは、所謂日本の銃砲刀剣類所持等取締法による「模造刀」に属していました。
日本で製作される「美術品・芸術品」としての価値の高い「日本刀」とは、その根本的な製作過程からして大きな相違がありました。しかし、刀身を除く他の付属品(鍔,ハバキ,切羽,目抜き等)は、全て手作りであり、ある意味、これらに関しては芸術品かな、と感心させられました。
鑢で細かく削る鍔の製作を見て、鞘(タイ産の加工し易い木を選んで作業)を刀身に合せて削る作業を見、この光景を見ていますと、日本の鞘造りをする職人さんと同一であると思えました。柄糸の手巻き等々製作しています現場を見学させていただきました。手作り業の素晴らしさが、私の体全体に伝わってきました。
見学後、別室に展示してあります一振りを了解を得て、素振りをしてみる事が出来ました。
全体が非常に重いです。力のある欧人向けですので、仕方のないことかもしれませんが、1200グラム以上はあったでしょうか。振り下ろす手に確かな手ごたえがありました。
一振りの価格ですが、2万バーツ(約52,000円)から注文で時期によりますが、約1ヶ月かけて製作するそうです。
日本では、銃刀法違反及び居合用として使用が認められていませんので、購入は出来かねるかもしれませんが、未だ調べていませんが、ここタイ国での所持は如何なものなのでしょうか。これから調べてみます。
できれば居合練習用に一振り(4万バーツ程度)依頼して製作していただこうかと考えています。
タイに来て3年数ヶ月、5年来の念願が叶って「シャムジープン刀」と偶然に出会うことが出来ました。感謝感謝です。
最後に一言苦言を呈したいと思います。
日本のテレビ局「テレビ朝日」視聴者を何と心得る。無責任なこと甚だしい。一言連絡が欲しかったです。
タグ :タイ刀
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15:33
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2011年10月04日
日本武道を一緒に練習しませんか。
タイ国で本格的に武道の練習をはじめて9ヶ月。これは、自前の練習場を確保してからのことであり、それ以前からも、細々とではあるが地道な行動はとっていた。
どうも人に見られていない武道の練習は、「陰」にこもりがちになり「暗い」感じがいがめないが、練習している「術技」はいたって明るく健康的である。
今、練習している場所にきてからは、表通りに直接面していることもあり、見られている意識も充分に練習の中には入ってきています。
そんな中、このブログ記事投稿が切っ掛けとなり、9月からタイ国は首都「バンコク」で武道の練習をはじめることに相成りました。
第1回目は私を含めて3人の練習会で始まりましたが、今月1日にまた1名の参加があり今は、合計で4名の小規模ながらの武道練習団体となっています。
練習内容ですが、以前からこのブログにも投稿していますように私が修行しています日本武道、
・全日本剣道連盟「杖道」
・全日本剣道連盟「居合道」
この二本を練習武道の柱としまして、それに練習したい人には、「護身術」を併せて教えていく、といった修行体系を取っています。
このブログを読んでくださった方、例えば、学生時代「居合」をやっていたけど今は遠のいてしまった、また、日本にいる時に「杖」の練習をしていたけど海外に来て暫くやっていない人、など等、また、いざという時、自分の身は自分自身で守るのが建前です、そんな事を必要と考えている人や、海外にいて友人が居ない何か自分にできるものがないかお探しの人、私の「会」には楽しい仲間がいます、お寄りになりませんか。
今のところ、私の住まいの事もあり練習は不定期ですが、月初めと最後の土曜日には練習を行っています。
練習場所は、「日本人会本館・会議室」(タイ国ノースサトン通り サトンタニビル1階)です。
とかく運動不足となりがちな都会暮らし、この解消と共に、良い仲間を見つける集い、と自分の身を守る術を自分自身で見つけていく練習、正に、いっきょ三徳です。
お待ちしています、一緒に良い汗をかきませんか。
どうも人に見られていない武道の練習は、「陰」にこもりがちになり「暗い」感じがいがめないが、練習している「術技」はいたって明るく健康的である。
今、練習している場所にきてからは、表通りに直接面していることもあり、見られている意識も充分に練習の中には入ってきています。
そんな中、このブログ記事投稿が切っ掛けとなり、9月からタイ国は首都「バンコク」で武道の練習をはじめることに相成りました。
第1回目は私を含めて3人の練習会で始まりましたが、今月1日にまた1名の参加があり今は、合計で4名の小規模ながらの武道練習団体となっています。
練習内容ですが、以前からこのブログにも投稿していますように私が修行しています日本武道、
・全日本剣道連盟「杖道」
・全日本剣道連盟「居合道」
この二本を練習武道の柱としまして、それに練習したい人には、「護身術」を併せて教えていく、といった修行体系を取っています。
このブログを読んでくださった方、例えば、学生時代「居合」をやっていたけど今は遠のいてしまった、また、日本にいる時に「杖」の練習をしていたけど海外に来て暫くやっていない人、など等、また、いざという時、自分の身は自分自身で守るのが建前です、そんな事を必要と考えている人や、海外にいて友人が居ない何か自分にできるものがないかお探しの人、私の「会」には楽しい仲間がいます、お寄りになりませんか。
今のところ、私の住まいの事もあり練習は不定期ですが、月初めと最後の土曜日には練習を行っています。
練習場所は、「日本人会本館・会議室」(タイ国ノースサトン通り サトンタニビル1階)です。
とかく運動不足となりがちな都会暮らし、この解消と共に、良い仲間を見つける集い、と自分の身を守る術を自分自身で見つけていく練習、正に、いっきょ三徳です。
お待ちしています、一緒に良い汗をかきませんか。
タグ :武道練習
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14:09
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2011年09月18日
制定居合 九本目「添え手突き」(そえてづき)
「添え手突き」は、立ち技の五本目になります。制定居合の術技も残り四本となってきました。
では、居合道術技「九本目・添え手突き」をご紹介してまいります。
一本目 「前」 の敵に対しての技。居合の全てがこの技に凝縮されています。
二本目は、「後ろ」 の敵を想定した技です。
三本目は、「受け流し」 敵を左に想定しての技です。
四本目「柄当て」 居合腰から前後の敵を制する技です。
五本目「袈裟切り」 立ち技になります。
逆袈裟に切り上げ、返す刀で袈裟に切り下ろす技です。
六本目「諸手突き太>」(もろてづき) 前後三人の敵を想定しての術技です。
七本目「三方切り」(さんぽうぎり) 前と左右の敵を想定しての術技です。
八本目「顔面当て」(がんめんあて) 前後二人の敵を想定しての術技です。
九本目「添え手突き」(そえてづき) 平行に歩行しています敵を想定して
の術技です。
〔要義〕
前進中、左の敵の殺気を感じ、機先を制して右袈裟に抜き打ちし、さらに、腹部を添え手で突き刺して勝つ。
(動作)
1、右足より正面に向って前進し、左足を踏み出したとき、左
の敵に振り向くと同時に刀に両手をかける。続いて踏み出
した右足を軸にして敵に向き直りながら左足を引くと同時に
上体を左に開いて敵の右肩口から左脇腹まで「袈裟に抜き
打ちする」。
2、右足をやや外側に向けてわずかに引いて「添え手突きの
構え」となり、間をおくことなく左足を踏み込むと同時に敵の
腹部を「突き刺す」。
3、左手の位置を動かさすことなく、刀を引き抜きながら刃先
を前下に向け、右こぶしを右乳前方におくって「構え」、残
心を示す。
4、左手を刀身からはなして鯉口を握り、左足を引くと同時に
刃先の向きにそって「右に開いての血振り」をする。
5、そのままの姿勢で「納刀」する。
6、後ろ足を前足にそろえ、右手を柄からはなして「帯刀姿
勢」となり、左足より退いて元の位置にもどる。
これが、九本目「添え手突き」です。
今回の敵の想定は、同時並列に同じ方向に動いていますことを条件としています。
居合の練習をしていて感じることですが、敵はあくまでも「仮想敵」です。しかし大切なことの一つは、いち早く敵の殺気を感じとる(柄に手をかけるなどの動作)ことにあるかと思います。
仮想敵の殺気を感じる訓練は、普段の練習において培っていくしか方法はないかと思います。
道場において何気なく練習をするのではなく、常に相手を意識したうえで練習をしていきますと、機先を制しての抜き付けも可能となってくるかと思います。
また、木刀で術技を練習するのも一つの方法ではないかと思います。刀で切りかかられますと、いい気持ちはしないものですが、木刀での相対練習であれば、さほどの恐怖感も出てこないと思います。
こうして訓練を重ねたうえで、徐々に刀で組んでの練習に移行していきますと、より以上の仮想敵の実感が想定されてくるのではないでしょうか。
今回の術技で大切なことは、『続いて踏み出した右足を軸にして敵に向き直りながら』の時に、左右の足の前足底を軸にして左へ回ることと、次の、『左足を引くと同時に上体を左に開いて敵の右肩口から左脇腹まで「袈裟に抜き打ちする」。』この時、上体を早く引き過ぎますと、敵に刀が充分に届かないままに、袈裟切りを行うこととなりますので、体の捌きを充分に研究する必要があるかと思います。
最後に、本日もいつもの言葉です、
『居合道は「演舞」ではありません。常に仮想敵を意識し反復練習あるのみです。いい汗は流した分だけ結果に反映されてきます。それが、動作や所作また全体の姿や形に現れてきます。練習は嘘はつきません。』
今日は九本目「添え手突き」(そえてづき)でした。
次回は、十本目「四方切り」(しほうぎり)です。
では、居合道術技「九本目・添え手突き」をご紹介してまいります。
一本目 「前」 の敵に対しての技。居合の全てがこの技に凝縮されています。
二本目は、「後ろ」 の敵を想定した技です。
三本目は、「受け流し」 敵を左に想定しての技です。
四本目「柄当て」 居合腰から前後の敵を制する技です。
五本目「袈裟切り」 立ち技になります。
逆袈裟に切り上げ、返す刀で袈裟に切り下ろす技です。
六本目「諸手突き太>」(もろてづき) 前後三人の敵を想定しての術技です。
七本目「三方切り」(さんぽうぎり) 前と左右の敵を想定しての術技です。
八本目「顔面当て」(がんめんあて) 前後二人の敵を想定しての術技です。
九本目「添え手突き」(そえてづき) 平行に歩行しています敵を想定して
の術技です。
〔要義〕
前進中、左の敵の殺気を感じ、機先を制して右袈裟に抜き打ちし、さらに、腹部を添え手で突き刺して勝つ。
(動作)
1、右足より正面に向って前進し、左足を踏み出したとき、左
の敵に振り向くと同時に刀に両手をかける。続いて踏み出
した右足を軸にして敵に向き直りながら左足を引くと同時に
上体を左に開いて敵の右肩口から左脇腹まで「袈裟に抜き
打ちする」。
2、右足をやや外側に向けてわずかに引いて「添え手突きの
構え」となり、間をおくことなく左足を踏み込むと同時に敵の
腹部を「突き刺す」。
3、左手の位置を動かさすことなく、刀を引き抜きながら刃先
を前下に向け、右こぶしを右乳前方におくって「構え」、残
心を示す。
4、左手を刀身からはなして鯉口を握り、左足を引くと同時に
刃先の向きにそって「右に開いての血振り」をする。
5、そのままの姿勢で「納刀」する。
6、後ろ足を前足にそろえ、右手を柄からはなして「帯刀姿
勢」となり、左足より退いて元の位置にもどる。
これが、九本目「添え手突き」です。
今回の敵の想定は、同時並列に同じ方向に動いていますことを条件としています。
居合の練習をしていて感じることですが、敵はあくまでも「仮想敵」です。しかし大切なことの一つは、いち早く敵の殺気を感じとる(柄に手をかけるなどの動作)ことにあるかと思います。
仮想敵の殺気を感じる訓練は、普段の練習において培っていくしか方法はないかと思います。
道場において何気なく練習をするのではなく、常に相手を意識したうえで練習をしていきますと、機先を制しての抜き付けも可能となってくるかと思います。
また、木刀で術技を練習するのも一つの方法ではないかと思います。刀で切りかかられますと、いい気持ちはしないものですが、木刀での相対練習であれば、さほどの恐怖感も出てこないと思います。
こうして訓練を重ねたうえで、徐々に刀で組んでの練習に移行していきますと、より以上の仮想敵の実感が想定されてくるのではないでしょうか。
今回の術技で大切なことは、『続いて踏み出した右足を軸にして敵に向き直りながら』の時に、左右の足の前足底を軸にして左へ回ることと、次の、『左足を引くと同時に上体を左に開いて敵の右肩口から左脇腹まで「袈裟に抜き打ちする」。』この時、上体を早く引き過ぎますと、敵に刀が充分に届かないままに、袈裟切りを行うこととなりますので、体の捌きを充分に研究する必要があるかと思います。
最後に、本日もいつもの言葉です、
『居合道は「演舞」ではありません。常に仮想敵を意識し反復練習あるのみです。いい汗は流した分だけ結果に反映されてきます。それが、動作や所作また全体の姿や形に現れてきます。練習は嘘はつきません。』
今日は九本目「添え手突き」(そえてづき)でした。
次回は、十本目「四方切り」(しほうぎり)です。
タグ :道
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16:34
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2011年09月15日
道を求めて
道を求めて今、歩んでいます。
はじめの一歩から長い行程の間は、本当に単独「一人旅」でした。
でも、ここ数ヶ月に景色の変化と共に、私の歩む姿を見て、私に寄り添って同調してくれます、道連れが出てきてくれるようになってきました。
今まで広い異国の地において、「道」をどのように探し求め、進んでいけばいいのか、本当に手探りの、闇夜の中に弓矢を放って、見えざる敵を射落とす感じの行動理念の繰り返しでしたが、最近は、一つの光明を感じることが出来、それに向かって邁進をしています。
思い起こしますと、8月に「コンケーン大学」での「日本文化の紹介」及び「日本武道の紹介」を切っ掛けとして、好回転に変じてきたように思えます。大学という特定の領域に佇み、そして、直接、若い学生達の熱気溢れる姿や行動を、久し振りに身近に感じることが出来、40年以上の時を超えて、自分も学生時代に戻ったような錯覚を感じさせてくれました。
今思うことですが、あの時こうしていれば、今こうなっていたかもしれない、「求める道」も今の様な茨の道ではなく、もっと平坦な穏やかな道が求められていたのかもしれない、などと空想してしまいます。
しかし、私にとっての「道」はこれしかないのである、と何時もその後に現実に引き返します。
自分で選んだ「道」であり、自分から飛び込んだ「道」であるから、決して後悔はせず、必要以上に後ろを振り返らずに、一歩一歩確実に歩んでいこうと再決意を常に心に誓っています。
特に、一緒に歩んでみたいという方が出てきましたいじょう、その方達が歩調を合せ易いように、自分の歩みを調整し常に同行者の姿や形を目に止めて、道に迷わないように気と心を配り、一筋の光明を点しつつ私自身切磋琢磨しながら、工夫,吟味,鍛錬を常日頃から心がけていきたいと思っています。
楽しい旅です。宜しかったら「同行」しませんか。旅は道連れ、世は情け。(情け知らずが最近は多いようでが。)
一人旅よりは二人旅、そして、三人旅、宜しかったら皆でワイワイがやがやと「道」を求めて旅をしてみませんか。
はじめの一歩から長い行程の間は、本当に単独「一人旅」でした。
でも、ここ数ヶ月に景色の変化と共に、私の歩む姿を見て、私に寄り添って同調してくれます、道連れが出てきてくれるようになってきました。
今まで広い異国の地において、「道」をどのように探し求め、進んでいけばいいのか、本当に手探りの、闇夜の中に弓矢を放って、見えざる敵を射落とす感じの行動理念の繰り返しでしたが、最近は、一つの光明を感じることが出来、それに向かって邁進をしています。
思い起こしますと、8月に「コンケーン大学」での「日本文化の紹介」及び「日本武道の紹介」を切っ掛けとして、好回転に変じてきたように思えます。大学という特定の領域に佇み、そして、直接、若い学生達の熱気溢れる姿や行動を、久し振りに身近に感じることが出来、40年以上の時を超えて、自分も学生時代に戻ったような錯覚を感じさせてくれました。
今思うことですが、あの時こうしていれば、今こうなっていたかもしれない、「求める道」も今の様な茨の道ではなく、もっと平坦な穏やかな道が求められていたのかもしれない、などと空想してしまいます。
しかし、私にとっての「道」はこれしかないのである、と何時もその後に現実に引き返します。
自分で選んだ「道」であり、自分から飛び込んだ「道」であるから、決して後悔はせず、必要以上に後ろを振り返らずに、一歩一歩確実に歩んでいこうと再決意を常に心に誓っています。
特に、一緒に歩んでみたいという方が出てきましたいじょう、その方達が歩調を合せ易いように、自分の歩みを調整し常に同行者の姿や形を目に止めて、道に迷わないように気と心を配り、一筋の光明を点しつつ私自身切磋琢磨しながら、工夫,吟味,鍛錬を常日頃から心がけていきたいと思っています。
楽しい旅です。宜しかったら「同行」しませんか。旅は道連れ、世は情け。(情け知らずが最近は多いようでが。)
一人旅よりは二人旅、そして、三人旅、宜しかったら皆でワイワイがやがやと「道」を求めて旅をしてみませんか。
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2011年09月08日
剣道のオリンピック競技化
私は、武道を修行していますが、「剣道」については中学・高校の数年の修行しか積んでいませんので、未だ初段止まりです。剣道の技等に関しまして私ごときが、どうのこうのを言える立場にはありませんが、しかし、同じ武道を修行しています者として、あえて言わせていただきたく記事を投稿いたします。ご了承ください。
先日こんな記事を読みました。「剣道のオリンピック競技化」を、積極的に推し進めている(国がある)という事実があるということです。
オリンピックに組み込むには多くの問題点があります。その前に、日本の伝統的な「武道」を一般的な単に優劣だけを競う、争いごとの競技と同じ土俵上に載せていいものかどうか、の議論があるかと思いますが如何でしょうか。
競技の中の陸上競技をみてみたいと思います。単純に他人と速さだけを競い合い、レイコンマ何秒単位で他人を押しのけた人が勝つ。
単純かつ明快な勝負事です。当たり前ですが、そこには日本武道の「精神性の欠片」も見出す事は出来ません。
今の世の中、ただ単純に勝つか負けるかの「勝負」に拘るきらいが、多過ぎるのではないでしょうか。
記事の中で目を引きましたのが、「剣道のオリンピック競技化」で問題になる点の解決策として「競技化」を積極的に推し進めている国が考えている事の一つが、「フェンシング」と同じ方式の採用ですって。
そうです、勝負の判定が難しい剣道の世界です。
籠手を打ちました。三人の審判員の内の一人だけが「白旗」を揚げましたが、後の二人は認めていません。面を打ちました、同じ結果です。
剣道は、ご承知のとおり「気・剣・体」の一致をみませんと「一本」という事にはなりません。この複雑な判定を競技化するための第一段階の方法を、「電光掲示」するとの事でした。
益々日本の武道(礼儀や精神の鍛錬等の修行)からかけ離れていく感がいたします。
剣道を、ただ単純な「勝負」だけの競技化にしてしまってもでいいのでしょうか。この流れがチョロチョロの小川の内に堰き止めて、川干ししてしまい埋めて流れを永遠に止めてしまうのか、それとも、大河となり押し流されるのを待つのか、どちらが日本武道としては正しい判断でしょうか。
オリンピック競技化を期待する動きもあるように記事には書いてあります。(ここでは今日は取り上げません。)
この「オリンピック競技化」を目論んでいますのは、正に、朝鮮です。朝鮮の陰謀と自国の歴史捏造の絡みから「オリンピック競技化」を推し進めています。
これには、朝鮮としては過去にテコンドーのオリンピック種目登録の実績がありますので、その轍を踏まえて二重三重の詐称を繰り返し行ってくることは間違いありません。
しかし、テコンドーと剣道とではまるっきり「武道」の本筋が違います。
如何でしょう日本人の皆さん、特に、日本武道を練習している皆さん、今こそ「大同団結」の時です。朝鮮の横暴をこれ以上増長させないためにも、力を結集して断固反論しようではありませんか。
永い伝統と栄えある歴史に輝ける「大和民族」の力をみせる時は今です。「時は今。」です。
先日こんな記事を読みました。「剣道のオリンピック競技化」を、積極的に推し進めている(国がある)という事実があるということです。
オリンピックに組み込むには多くの問題点があります。その前に、日本の伝統的な「武道」を一般的な単に優劣だけを競う、争いごとの競技と同じ土俵上に載せていいものかどうか、の議論があるかと思いますが如何でしょうか。
競技の中の陸上競技をみてみたいと思います。単純に他人と速さだけを競い合い、レイコンマ何秒単位で他人を押しのけた人が勝つ。
単純かつ明快な勝負事です。当たり前ですが、そこには日本武道の「精神性の欠片」も見出す事は出来ません。
今の世の中、ただ単純に勝つか負けるかの「勝負」に拘るきらいが、多過ぎるのではないでしょうか。
記事の中で目を引きましたのが、「剣道のオリンピック競技化」で問題になる点の解決策として「競技化」を積極的に推し進めている国が考えている事の一つが、「フェンシング」と同じ方式の採用ですって。
そうです、勝負の判定が難しい剣道の世界です。
籠手を打ちました。三人の審判員の内の一人だけが「白旗」を揚げましたが、後の二人は認めていません。面を打ちました、同じ結果です。
剣道は、ご承知のとおり「気・剣・体」の一致をみませんと「一本」という事にはなりません。この複雑な判定を競技化するための第一段階の方法を、「電光掲示」するとの事でした。
益々日本の武道(礼儀や精神の鍛錬等の修行)からかけ離れていく感がいたします。
剣道を、ただ単純な「勝負」だけの競技化にしてしまってもでいいのでしょうか。この流れがチョロチョロの小川の内に堰き止めて、川干ししてしまい埋めて流れを永遠に止めてしまうのか、それとも、大河となり押し流されるのを待つのか、どちらが日本武道としては正しい判断でしょうか。
オリンピック競技化を期待する動きもあるように記事には書いてあります。(ここでは今日は取り上げません。)
この「オリンピック競技化」を目論んでいますのは、正に、朝鮮です。朝鮮の陰謀と自国の歴史捏造の絡みから「オリンピック競技化」を推し進めています。
これには、朝鮮としては過去にテコンドーのオリンピック種目登録の実績がありますので、その轍を踏まえて二重三重の詐称を繰り返し行ってくることは間違いありません。
しかし、テコンドーと剣道とではまるっきり「武道」の本筋が違います。
如何でしょう日本人の皆さん、特に、日本武道を練習している皆さん、今こそ「大同団結」の時です。朝鮮の横暴をこれ以上増長させないためにも、力を結集して断固反論しようではありませんか。
永い伝統と栄えある歴史に輝ける「大和民族」の力をみせる時は今です。「時は今。」です。
タグ :剣道
Posted by 阿羅漢 at
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2011年09月08日
武道修行(道を求めて)「終わりのない道程」
武道修行に終わりというものがあるのだろうか。
ないであろう。
というのは、例えば、一つの技をつきつめればつきつめていくほどに、道がどんどんと開けていき、奥が深くなっていき、次から次へと課題や問題が山積してきて、決して納得のいける技とはいえなくなってきます。
また、初歩段階で納得した技も、修行してきますと、同じ技を行ってみても、とても満足できない技になってきていることに気がつきます。
今、未だ「杖道」と「居合道」はどちらも、修行の道の本当に第一歩を踏み出したばかりの初心者ですが、少林寺拳法は何とか年数だけは過ぎ去っています。
少林寺拳法の技に例えてみますと、「逆小手」という技が「柔法」の龍華拳の中にあります。
この技は級拳士の時に初めは、鉤手守法から入り、次に、投げを打っていきますが、級拳士の時の、「逆小手」と、三段を取得してからの技では、自ずから冴えや、また、決めに違いが出てきて当然です。
固め技も、最初は、前指固を使って相手を制しますが、同じ様に上の段にいきますと、裏固を使用し裏三枚から肩を攻め、息が出来ないくらいの決め技を駆使していきます。
また、初心拳士には出来ない「逆小手」の変化技もやるようになってきます。
これは柔法の一つの例ですが、同じ様な事が「剛法」の中にも出てきます。
仁王拳の中に流水蹴という技があります。この技は、初心者の初心者が行う技でして、単純に相手の上段直突を後ろに避けるか、斜め前に避けるかの違いですが、その後に、後ろに下がった場合は順蹴りを、斜めに体を捌いた場合は逆蹴り(廻し蹴り)を行っていくだけです。
この技の変化ではないですが、上の段にいきますと攻撃は、上段直突と、中段逆突の二連突を行い、守者は、これを上受け、すかさず、内受け下受けの二連受けを同時に行い、順蹴りを蹴って反攻していきます。
この技は、天王拳「突天一」という技になります。
この様に、最初に習った単純な技から、その道に染まっていく(帯の色の変化。白い「純真無垢」から、黒い色へと染まっていく。)につれて、高度な技術を学んでいくようになり、自然と体もその変化に慣れてきてしまうのも、練習の賜物ではないでしょうか。
今、騒然とした世の中です。家に居ても何が起こるかわかりませんが、一歩外へ足を踏み出しますと、何事が起こるか判らない世の中になっています。特に、タイ国は、米国と同じ様に「銃器」の取扱についてはそんなにやかましい規制、厳しい罰則がないように感じています。
といいますのは、「薬物」絡みのニュ-スがテレビに流れますと、必ずといっていいほどに薬物と並べられて、短銃と自動小銃が数丁は没収されています。
タイの服装を見てみますと、シャツをズボンの外に出して(日本では「だらしがない」と怒られていましたが。)着ています。タイでは当たり前の着方です。暑い気候のせいかどうかは解りませんが、誰もが行っている服の着方です。
以前私が、シャツを中に入れて日本でのいつものとおり着ていましたら妻が、「田舎くさい」と言っていました。(文化の違い。生活習慣の違いでしょうか)
この服装も問題です。腰に何を挟んでいるか見当が付きません、全員が何か持っているということは考えられない事ですが、日本ですと、凶器は「バック等」の中に忍び込ませて持ち運びますが、タイは体に密着した形で持ち運んでいても、決して不思議ではありません。
少林寺拳法の管長先生が「ご法話」の中でこのような事を、お話されていたことを思い出します。
「何時も、ボケ-ッとしていてはいけないのです。常に危機管理を念頭において行動してください。それには、今、自分がどのような状態に居て、周りの状態がどうなっているか、そしてこの様になった時には、どう対処するかを何時も頭の片隅に入れて行動してください。(八方目)大切です。」
と、このようなお話をされていた事を思い出しました。
何時如何なる場合であっても、自分のおかれている立場や環境を適切に把握しておき、咄嗟の危機には悠然と、そして即、対応が可能な体制と心構えを日常的に行っておけば「備えあれば憂いなし。」は間違いなしであると確信しています。
それには、常日頃の武道の鍛錬が不可欠な要素であると思っています。反射神経の訓練や、不撓不屈の精神力を養うには、一歩一歩の努力が大切であると思っています。
武道修行の道は果てしない「生涯」の「旅」です。でも、楽しい旅です。
ないであろう。
というのは、例えば、一つの技をつきつめればつきつめていくほどに、道がどんどんと開けていき、奥が深くなっていき、次から次へと課題や問題が山積してきて、決して納得のいける技とはいえなくなってきます。
また、初歩段階で納得した技も、修行してきますと、同じ技を行ってみても、とても満足できない技になってきていることに気がつきます。
今、未だ「杖道」と「居合道」はどちらも、修行の道の本当に第一歩を踏み出したばかりの初心者ですが、少林寺拳法は何とか年数だけは過ぎ去っています。
少林寺拳法の技に例えてみますと、「逆小手」という技が「柔法」の龍華拳の中にあります。
この技は級拳士の時に初めは、鉤手守法から入り、次に、投げを打っていきますが、級拳士の時の、「逆小手」と、三段を取得してからの技では、自ずから冴えや、また、決めに違いが出てきて当然です。
固め技も、最初は、前指固を使って相手を制しますが、同じ様に上の段にいきますと、裏固を使用し裏三枚から肩を攻め、息が出来ないくらいの決め技を駆使していきます。
また、初心拳士には出来ない「逆小手」の変化技もやるようになってきます。
これは柔法の一つの例ですが、同じ様な事が「剛法」の中にも出てきます。
仁王拳の中に流水蹴という技があります。この技は、初心者の初心者が行う技でして、単純に相手の上段直突を後ろに避けるか、斜め前に避けるかの違いですが、その後に、後ろに下がった場合は順蹴りを、斜めに体を捌いた場合は逆蹴り(廻し蹴り)を行っていくだけです。
この技の変化ではないですが、上の段にいきますと攻撃は、上段直突と、中段逆突の二連突を行い、守者は、これを上受け、すかさず、内受け下受けの二連受けを同時に行い、順蹴りを蹴って反攻していきます。
この技は、天王拳「突天一」という技になります。
この様に、最初に習った単純な技から、その道に染まっていく(帯の色の変化。白い「純真無垢」から、黒い色へと染まっていく。)につれて、高度な技術を学んでいくようになり、自然と体もその変化に慣れてきてしまうのも、練習の賜物ではないでしょうか。
今、騒然とした世の中です。家に居ても何が起こるかわかりませんが、一歩外へ足を踏み出しますと、何事が起こるか判らない世の中になっています。特に、タイ国は、米国と同じ様に「銃器」の取扱についてはそんなにやかましい規制、厳しい罰則がないように感じています。
といいますのは、「薬物」絡みのニュ-スがテレビに流れますと、必ずといっていいほどに薬物と並べられて、短銃と自動小銃が数丁は没収されています。
タイの服装を見てみますと、シャツをズボンの外に出して(日本では「だらしがない」と怒られていましたが。)着ています。タイでは当たり前の着方です。暑い気候のせいかどうかは解りませんが、誰もが行っている服の着方です。
以前私が、シャツを中に入れて日本でのいつものとおり着ていましたら妻が、「田舎くさい」と言っていました。(文化の違い。生活習慣の違いでしょうか)
この服装も問題です。腰に何を挟んでいるか見当が付きません、全員が何か持っているということは考えられない事ですが、日本ですと、凶器は「バック等」の中に忍び込ませて持ち運びますが、タイは体に密着した形で持ち運んでいても、決して不思議ではありません。
少林寺拳法の管長先生が「ご法話」の中でこのような事を、お話されていたことを思い出します。
「何時も、ボケ-ッとしていてはいけないのです。常に危機管理を念頭において行動してください。それには、今、自分がどのような状態に居て、周りの状態がどうなっているか、そしてこの様になった時には、どう対処するかを何時も頭の片隅に入れて行動してください。(八方目)大切です。」
と、このようなお話をされていた事を思い出しました。
何時如何なる場合であっても、自分のおかれている立場や環境を適切に把握しておき、咄嗟の危機には悠然と、そして即、対応が可能な体制と心構えを日常的に行っておけば「備えあれば憂いなし。」は間違いなしであると確信しています。
それには、常日頃の武道の鍛錬が不可欠な要素であると思っています。反射神経の訓練や、不撓不屈の精神力を養うには、一歩一歩の努力が大切であると思っています。
武道修行の道は果てしない「生涯」の「旅」です。でも、楽しい旅です。
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2011年08月22日
少林寺拳法「開祖」法話 5
「開祖」法話も今回で第五話となります。今までに投稿しましたご法話(題名)は、下記に掲載しておきましたので、どうぞごらんください。
私はいつも有り難く思っていますことは、毎日が「武道三昧」で過ごす事ができているという事です。食べる心配もまるで無く、寝る所の心配もなく、ましてやお金の心配も全然していませんし、本当に24時間以上が武道中心の生活を送らせていただいています。
それでいまして、決して苦では有りません。逆に毎日が楽しくしょうがないくらいです。
(いつものことですが、こんな武道中心で考えています生活ですが、何も言わない妻には大変大変感謝しています。)
こんな私の武道に対する基本的な考え方、また、他の武道においてもその基礎運動力等の根源となっていますのが、『少林寺拳法』です。
〔管長先生のご法話を掲載させていただいていますが記載事項
の「新聞記事」を除きまして、全文はあくまでも私の独断と一存
で記載していることでありますので、一切の責任は私に有りま
す。 宜しくお願いいたします。〕
少林寺拳法の管長先生のご法話を投稿し始めまして今回で5回目となります。
第1回目は、「己が第一だが、すべてではない」(昨年10月17日)
2回目は、「何かの時には助け合える人間関係を」」(昨年の10月23日)
3回目は、「人は一人では存在できない』(本年1月3日)
4回目は、「横へのつながりをもっと持て!」(本年3月20日)
言うだけでなく行動を!
『新聞少林寺拳法』1991年2月
『ある日の新聞に出ていた。子どもが川でおぼれている。一緒に遊んでいた子が道路に飛んで出て、手をあげて、どうぞ助けて下さいと言った。ところが、ひき殺したらいかんから車は止めるけれども、助けてくれる者は一人もいなかったというんだ。似たようなことは毎日の新聞にいっばいありますよ。通勤電車の中で誰かがのさばっている。みんな見て見ぬふりをしている。
「おれには関係ない」「かかわり合ったら困る」、こういうことではね、世の中良くなりっこないのだ。あの人はかわいそうだ、あんな悪いことをしていると言ってみたって何も解決しない。言うだけでなく、行動しようじゃないか。』
(1969年10月・指導者講習会での法話より)
管長先生は兎に角「行動しろ」を何時も言っておられました。夏期講習会や夏期大学の講義に臨まれますと、1回乃至は2回はこの言葉が出てきますくらい、「行動」の是非については強く述べられておられました。
その中で少林寺拳法が掲げた行動目標の一つに『行動する少林寺』という指針が掲げられていた事を思い出します。
そのために当時管長先生は自らのお車を「ジープ」になされ、自ら行動する少林寺、の先頭に立っての意気込みをお示しなさっていました。
また各道院,支部においても拳士はできるだけ「ジープ」を購入し、積極果敢に行動するよう、管長先生は拳士に呼びかけられていました。(拳士も常に「行動」を心根に持って修行に励んでいました。)
私の所属していました道院でも、4段以上の何人かの拳士は、新規購入時に買い換えた人がいたと思います。
管長先生のご法話「言うだけでなく行動を」は、武士道の精神の中にも有ります、「義を見てせざるは、勇なきなり」と説かれていますように、人の難儀に際して、義(人の道)を行使しないのは勇(義のために行われるのでなければ、徳の中に数えられる価値はない)の欠如であるといわれております。
側から見ても困っている人への最初の一言「大丈夫ですか。」これが中々言えない一言でありますが、本当に困り抜いている人には、優しく声をかけてあげて手を差し伸べえあげたいものです。
よく電車の中でも座席を独り占めして、ふんぞり返って悦にドーンと寝たふりを決め込んでいる人などを見かけますが、この様な輩は言語同断であると私は考えます。
何のために、誰のために、何故、武道を修行していますか。
その答えは、自己のため、自己確立のため自己鍛錬のためであり、
そして、自己確立できた人間は、他のために役立つ力を備える、他の人のために力を貸してあげる、
これが、少林寺拳法の
自他共楽 金剛禅運動
(少林寺拳法の「詩」の一節)
五 半ばは他人の幸せを 半ばはわが身の幸せを 心に誓う 少林寺
です。
最後になりました。前回も記載しましたが、管長先生がお話いただいていますご法話を、私は何時も心の中で反芻しています。しかし、これは知っている事ではなく、できることをやっていこうと常に決心するためにです。
微力です、一人でどこまでできるかは判りませんが、少林寺拳法で鍛えたこの肉体そして護身の術、また、今も武道で修行中のこの精神を駆使してがんばっていこうと思っています。
今日は「言うだけでなく行動を!」というご法話を記載させていただきました。
私はいつも有り難く思っていますことは、毎日が「武道三昧」で過ごす事ができているという事です。食べる心配もまるで無く、寝る所の心配もなく、ましてやお金の心配も全然していませんし、本当に24時間以上が武道中心の生活を送らせていただいています。
それでいまして、決して苦では有りません。逆に毎日が楽しくしょうがないくらいです。
(いつものことですが、こんな武道中心で考えています生活ですが、何も言わない妻には大変大変感謝しています。)
こんな私の武道に対する基本的な考え方、また、他の武道においてもその基礎運動力等の根源となっていますのが、『少林寺拳法』です。
〔管長先生のご法話を掲載させていただいていますが記載事項
の「新聞記事」を除きまして、全文はあくまでも私の独断と一存
で記載していることでありますので、一切の責任は私に有りま
す。 宜しくお願いいたします。〕
少林寺拳法の管長先生のご法話を投稿し始めまして今回で5回目となります。
第1回目は、「己が第一だが、すべてではない」(昨年10月17日)
2回目は、「何かの時には助け合える人間関係を」」(昨年の10月23日)
3回目は、「人は一人では存在できない』(本年1月3日)
4回目は、「横へのつながりをもっと持て!」(本年3月20日)
言うだけでなく行動を!
『新聞少林寺拳法』1991年2月
『ある日の新聞に出ていた。子どもが川でおぼれている。一緒に遊んでいた子が道路に飛んで出て、手をあげて、どうぞ助けて下さいと言った。ところが、ひき殺したらいかんから車は止めるけれども、助けてくれる者は一人もいなかったというんだ。似たようなことは毎日の新聞にいっばいありますよ。通勤電車の中で誰かがのさばっている。みんな見て見ぬふりをしている。
「おれには関係ない」「かかわり合ったら困る」、こういうことではね、世の中良くなりっこないのだ。あの人はかわいそうだ、あんな悪いことをしていると言ってみたって何も解決しない。言うだけでなく、行動しようじゃないか。』
(1969年10月・指導者講習会での法話より)
管長先生は兎に角「行動しろ」を何時も言っておられました。夏期講習会や夏期大学の講義に臨まれますと、1回乃至は2回はこの言葉が出てきますくらい、「行動」の是非については強く述べられておられました。
その中で少林寺拳法が掲げた行動目標の一つに『行動する少林寺』という指針が掲げられていた事を思い出します。
そのために当時管長先生は自らのお車を「ジープ」になされ、自ら行動する少林寺、の先頭に立っての意気込みをお示しなさっていました。
また各道院,支部においても拳士はできるだけ「ジープ」を購入し、積極果敢に行動するよう、管長先生は拳士に呼びかけられていました。(拳士も常に「行動」を心根に持って修行に励んでいました。)
私の所属していました道院でも、4段以上の何人かの拳士は、新規購入時に買い換えた人がいたと思います。
管長先生のご法話「言うだけでなく行動を」は、武士道の精神の中にも有ります、「義を見てせざるは、勇なきなり」と説かれていますように、人の難儀に際して、義(人の道)を行使しないのは勇(義のために行われるのでなければ、徳の中に数えられる価値はない)の欠如であるといわれております。
側から見ても困っている人への最初の一言「大丈夫ですか。」これが中々言えない一言でありますが、本当に困り抜いている人には、優しく声をかけてあげて手を差し伸べえあげたいものです。
よく電車の中でも座席を独り占めして、ふんぞり返って悦にドーンと寝たふりを決め込んでいる人などを見かけますが、この様な輩は言語同断であると私は考えます。
何のために、誰のために、何故、武道を修行していますか。
その答えは、自己のため、自己確立のため自己鍛錬のためであり、
そして、自己確立できた人間は、他のために役立つ力を備える、他の人のために力を貸してあげる、
これが、少林寺拳法の
自他共楽 金剛禅運動
(少林寺拳法の「詩」の一節)
五 半ばは他人の幸せを 半ばはわが身の幸せを 心に誓う 少林寺
です。
最後になりました。前回も記載しましたが、管長先生がお話いただいていますご法話を、私は何時も心の中で反芻しています。しかし、これは知っている事ではなく、できることをやっていこうと常に決心するためにです。
微力です、一人でどこまでできるかは判りませんが、少林寺拳法で鍛えたこの肉体そして護身の術、また、今も武道で修行中のこの精神を駆使してがんばっていこうと思っています。
今日は「言うだけでなく行動を!」というご法話を記載させていただきました。
タグ :法話
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2011年08月22日
これってほんとに 朝鮮剣術なの?
★伝統剣法「朝鮮勢法」を世界に披露する女性剣士 「日本の剣道と異なる韓国固有の剣法」
「日本の剣道とも中国の剣法とも異なる、韓国固有の剣法を確実に伝えたい」
韓国の女性剣士が、韓国最古の剣法である「朝鮮勢法」を世界の武術関係者に披露する。その人物とは、大邱で剣道場「一剣館」を運営する、イ・ウンミ館長(41)
先月28日(2010年9月2日の投稿記事)から中国・北京で、「武道の五輪」といわれる「スポーツアコード・コンバット・ゲームズ」が開催されている。テコンドー、ボクシング、柔道、ブラジリアン柔術、空手、剣道、キックボクシング、ムエタイ、サンボ、相撲、レスリング、武術の13種目による格闘技の総合大会で、150カ国・地域から1900人以上の選手が参加している。
イ館長は今月4日、この大会で「朝鮮勢法」24勢のうち12勢の公開演武を行う。「朝鮮勢法」とは、朝鮮時代の武芸訓練の教法『武芸図譜通志』に登場する「本国剣法」よりも古い韓国最古の剣法で、前後左右の攻撃姿勢が描写されている。中国・明朝の茅元儀が著した『武備志』に登場したものを、1980年代から大韓剣道会が解析し、復元作業に取り組んでいる。
イ館長は、朝鮮勢法の修練を始めてから3年で3段に昇段。今回の演武のために、数カ月前から毎日のように、実演とイメージトレーニングを繰り返し、情熱を注いでいる。
「朝鮮勢法は実戦用のもの。ほとんどの剣道が、多くのルールが定められた競技用スポーツとなっているが、これは大きく異なる。剣も腰ではなく、肩にひもを結んで差すスタイルだ」
イ館長は、暁星女子大(現・大邱カトリック大)と大学院でピアノを専攻した。ところが大学院時代、偶然接した剣道に魅了され、音楽の道に進むのをやめたという。剣道では、韓国国内の女性剣士で最高の6段を取得している。
という(前段全部)記事が一昨日目に入りましたので、皆様にもお見せしたく記事として投稿しました。
この前段の記事の次の「間」に写真が貼り出されています。その写真の全体説明をしますと、
背景は、剣道用とおぼしき防具が入っています棚が4段くらいあります。防具らしきものには垂袋もついていて、漢字(?)で名前が書かれています。朝鮮剣道用防具(?)垂に漢字で書かれた垂袋、大変可笑しいのではないでしょうか。でも、良く見てみると確かに胴と垂が見えてきます。
その棚の前には、細身の木刀(?)が乱雑に突っ込まれています。ただ突っ込んであるといった表現がそのまま当てはまってきます。
さて、当のご本人ですが、髪の毛は茶毛ではなく、赤毛のお河童頭、黒の鉢巻をきりりと結び、胴衣は赤の何袖というのでしょう、中国の昔の映画に出てきます大きな袖を持ったもので、腰にはお印程度の青く細い紐が結ばれています。
れり首からは何故か白いシャツ(?)襦袢の代わりなのか、が大きくはみ出て見えています。
そして何とも奇妙な事が、「鎖」か、はたまた「数珠」でしょうか、右肩から左腰にかけて垂らして有ります。鞘は鯉口から30センチメートルくらいのところに円い管が付いていてそこに先程の「鎖」の先端が結ばれています。
肩から吊るした朝鮮刀。
この刀みたいなもの。一寸見た目は日本の刀そっくりです。(「本拵」に酷似しています。)
しかし、柄金が銅そのまま(醜い)。写真を撮る光の加減か、光の当て具合が悪いのか、刀身が錆びている感じで映っています。
そして何よりも決定的に贋物(なにが3年で3段取得)の証拠は、(「朝鮮勢法」というのはそんなに甘いのですか。)
柄の握り方ですよ。刀を本当に握り練習していなければ判らないでしょうが、右手親指の母指丘が使われていません。
この人の刀の握り方は、剣道の竹刀の握り方です。
朝鮮では、刀を握る時にはこの様に握りなさいと教えているのでしょうか、「手の内」がまるで出来ていませんね。これで朝鮮勢法の3段ですか。大したことがないですね朝鮮勢法というのは。大きな事を言っている割には。
それに、写真を撮るのであれば柄頭のあけ方にも工夫が必要でしたかな。少しどころか空き過ぎの感じがします。
「剣道では、韓国国内の女性剣士で最高の6段を取得している。」というのも、術技の中身が知れますね。
「大学院でピアノを専攻した。」のに、なんかもったいないではないですか。ピアノの方が良いですよ。今からでも遅くありません。ピアノに戻ったら如何ですか。
この写真全体を見ました感じからしますと、ただ単に飛んだり跳ねたり、前後左右に動く朝鮮舞踊に、刀を奇妙に振り回して見せているだけではないかと想像されます。
日本の真の武道を知らない人間は、奇妙奇天烈な女性の踊りに魅了され翻弄され、虜になってしますのではないでしょうか。
これは朝鮮踊りですよ、と言わない限り判らないでしょうから。
本日は、もったいぶって「写真」まで投稿している、偽武道の朝鮮勢法という記事をご紹介しました。
皆さんも ★伝統剣法「朝鮮勢法」を世界に披露する女性剣士 「日本の剣道と異なる韓国固有の剣法」の写真を見てやってください。(笑ってはだめですよ。決して笑わないでください。)
「日本の剣道とも中国の剣法とも異なる、韓国固有の剣法を確実に伝えたい」
韓国の女性剣士が、韓国最古の剣法である「朝鮮勢法」を世界の武術関係者に披露する。その人物とは、大邱で剣道場「一剣館」を運営する、イ・ウンミ館長(41)
先月28日(2010年9月2日の投稿記事)から中国・北京で、「武道の五輪」といわれる「スポーツアコード・コンバット・ゲームズ」が開催されている。テコンドー、ボクシング、柔道、ブラジリアン柔術、空手、剣道、キックボクシング、ムエタイ、サンボ、相撲、レスリング、武術の13種目による格闘技の総合大会で、150カ国・地域から1900人以上の選手が参加している。
イ館長は今月4日、この大会で「朝鮮勢法」24勢のうち12勢の公開演武を行う。「朝鮮勢法」とは、朝鮮時代の武芸訓練の教法『武芸図譜通志』に登場する「本国剣法」よりも古い韓国最古の剣法で、前後左右の攻撃姿勢が描写されている。中国・明朝の茅元儀が著した『武備志』に登場したものを、1980年代から大韓剣道会が解析し、復元作業に取り組んでいる。
イ館長は、朝鮮勢法の修練を始めてから3年で3段に昇段。今回の演武のために、数カ月前から毎日のように、実演とイメージトレーニングを繰り返し、情熱を注いでいる。
「朝鮮勢法は実戦用のもの。ほとんどの剣道が、多くのルールが定められた競技用スポーツとなっているが、これは大きく異なる。剣も腰ではなく、肩にひもを結んで差すスタイルだ」
イ館長は、暁星女子大(現・大邱カトリック大)と大学院でピアノを専攻した。ところが大学院時代、偶然接した剣道に魅了され、音楽の道に進むのをやめたという。剣道では、韓国国内の女性剣士で最高の6段を取得している。
という(前段全部)記事が一昨日目に入りましたので、皆様にもお見せしたく記事として投稿しました。
この前段の記事の次の「間」に写真が貼り出されています。その写真の全体説明をしますと、
背景は、剣道用とおぼしき防具が入っています棚が4段くらいあります。防具らしきものには垂袋もついていて、漢字(?)で名前が書かれています。朝鮮剣道用防具(?)垂に漢字で書かれた垂袋、大変可笑しいのではないでしょうか。でも、良く見てみると確かに胴と垂が見えてきます。
その棚の前には、細身の木刀(?)が乱雑に突っ込まれています。ただ突っ込んであるといった表現がそのまま当てはまってきます。
さて、当のご本人ですが、髪の毛は茶毛ではなく、赤毛のお河童頭、黒の鉢巻をきりりと結び、胴衣は赤の何袖というのでしょう、中国の昔の映画に出てきます大きな袖を持ったもので、腰にはお印程度の青く細い紐が結ばれています。
れり首からは何故か白いシャツ(?)襦袢の代わりなのか、が大きくはみ出て見えています。
そして何とも奇妙な事が、「鎖」か、はたまた「数珠」でしょうか、右肩から左腰にかけて垂らして有ります。鞘は鯉口から30センチメートルくらいのところに円い管が付いていてそこに先程の「鎖」の先端が結ばれています。
肩から吊るした朝鮮刀。
この刀みたいなもの。一寸見た目は日本の刀そっくりです。(「本拵」に酷似しています。)
しかし、柄金が銅そのまま(醜い)。写真を撮る光の加減か、光の当て具合が悪いのか、刀身が錆びている感じで映っています。
そして何よりも決定的に贋物(なにが3年で3段取得)の証拠は、(「朝鮮勢法」というのはそんなに甘いのですか。)
柄の握り方ですよ。刀を本当に握り練習していなければ判らないでしょうが、右手親指の母指丘が使われていません。
この人の刀の握り方は、剣道の竹刀の握り方です。
朝鮮では、刀を握る時にはこの様に握りなさいと教えているのでしょうか、「手の内」がまるで出来ていませんね。これで朝鮮勢法の3段ですか。大したことがないですね朝鮮勢法というのは。大きな事を言っている割には。
それに、写真を撮るのであれば柄頭のあけ方にも工夫が必要でしたかな。少しどころか空き過ぎの感じがします。
「剣道では、韓国国内の女性剣士で最高の6段を取得している。」というのも、術技の中身が知れますね。
「大学院でピアノを専攻した。」のに、なんかもったいないではないですか。ピアノの方が良いですよ。今からでも遅くありません。ピアノに戻ったら如何ですか。
この写真全体を見ました感じからしますと、ただ単に飛んだり跳ねたり、前後左右に動く朝鮮舞踊に、刀を奇妙に振り回して見せているだけではないかと想像されます。
日本の真の武道を知らない人間は、奇妙奇天烈な女性の踊りに魅了され翻弄され、虜になってしますのではないでしょうか。
これは朝鮮踊りですよ、と言わない限り判らないでしょうから。
本日は、もったいぶって「写真」まで投稿している、偽武道の朝鮮勢法という記事をご紹介しました。
皆さんも ★伝統剣法「朝鮮勢法」を世界に披露する女性剣士 「日本の剣道と異なる韓国固有の剣法」の写真を見てやってください。(笑ってはだめですよ。決して笑わないでください。)
タグ :朝鮮剣術
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2011年08月14日
8月15日(敗戦日)
今年も後1日であの「敗戦日」がやってきます。
私はこの事実を自分の目で見たわけではありません。
戦後の昭和22年生まれの私にとっては、父から戦地の有り様を遠い昔に聞いたり、本を読んだりのことですが、「日本人」として、また、「国粋主義者」を自認しています自分にとって、この敗戦日が何時になったら払拭され、真の「日本の自主独立」が可能となるのか心配でなりません。
自主独立どころか、最近の日本国の政治経済国民の様を遠方していますと、「亡国の徒」に見られるようなそんな感がしてきてなりません。(日本で生活をしています日本人の皆さん感じませんか。)
政の頂点に立ちその政治能力もましてや行動力や決断力、そして、一番政治家としての欠点は、「人の話が聞けない。」ことです。
明治天皇の勅命によってつくられ、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針「五箇条のご誓文」を“この人”は読んだ事があるのでしょうか。
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
二 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
三 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
四 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
五 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
であります。
言葉の意味は、皆さんよくご存知の事でしょうから、あえて私は注釈はしませんが、この「五箇条のご誓文」、正に、今の日本国の現状を正し、国民を正道に導き日本古来の伝統ある格式高い民族に立ち返させるためには、是非とも再登場願し、広く日本国民に再認識させるべき「お言葉」であると私は常日頃から考えています事であります。(一部現代に合せて修正しなければならない箇所もありますが。)
また、日本人としての精神的な意識認識の再確認の必要性とともに、大切な“文言”を忘れてはなりません。
この事実を抜きにしては、日本の真の『独立』はありえませんし、米国と対等の立場で世界の桧舞台において、物事を推し進める姿勢が整わないと思っています。
日本国憲法
の自主制定です。
今の憲法を後生大事に背中に背負っていますのは、“亡国の徒”集団です。そして、“平和憲法”の甘い言葉を罠に日本を破滅に導こうと目論んでいます。
今の政治家の“政”を一つ一つ注視してご覧ください。(この判断する「目」を養ってください。『眼力』が大切です。)
国民への選挙活動での訴えは“甘い言葉(甘言を弄し)”を使っていましたが、実際自分達がその政権の座に就いた途端如何ですか、正に“手の平を返したよう”とはこの現象を表す言葉にドンピシャリです。
あれも出来ません、これも出来ません、 ジャ何一体お前たちは出来るんだ。
その答えは“亡国”、“日本国の売り渡し”、“日本解体”です。
この事を彼らは堂々と、政権の座を使ってやってのけています。
一つの例を挙げますと、“北朝鮮問題”です。
前政権から何か進展しました現象がありますか。逆ですね。
“政”の日本の最高責任者が、北と蜜月の如く密着しています現状では、この問題は棚上げ以上に消え去る運命下にあると私は思います。
言えませ-ん、言える筈がありませ-ん、自分達は、“北朝鮮思想”を標榜する敬虔なる信者、信徒ですから。
本家本元の悪口は一切言えませんし、大体彼らにとっては“北朝鮮問題”(拉致の事実)は無いものと思っているのではないでしょうか。
兎に角、明日は「敗戦日」です。屈辱の思い出がまた深く心に蘇ってきます。
明日は、現憲法を深く敬愛する者達は、“歴史事実を捻じ曲げたく”また躍起になって、“平和”や“戦争反対”を日本各地で叫ぶ事でしょう。
でも、再度歴史を良く考え「日本人」としての真実の歴史、特に、昭和史を明日は『心ある日本人』の方々は思い起こしてください。
前大戦「大東亜戦争」は、日本が好んで引き起こした戦争でない事を、事実として再認識する明日は良い機会だと思います。
そして、正午
陸,海,空 に 祖国日本の父,母,妻,子供達の将来のためにと散っていきました『英霊』に黙祷を捧げて下さい。
よろしくお願いいたします。
私はこの事実を自分の目で見たわけではありません。
戦後の昭和22年生まれの私にとっては、父から戦地の有り様を遠い昔に聞いたり、本を読んだりのことですが、「日本人」として、また、「国粋主義者」を自認しています自分にとって、この敗戦日が何時になったら払拭され、真の「日本の自主独立」が可能となるのか心配でなりません。
自主独立どころか、最近の日本国の政治経済国民の様を遠方していますと、「亡国の徒」に見られるようなそんな感がしてきてなりません。(日本で生活をしています日本人の皆さん感じませんか。)
政の頂点に立ちその政治能力もましてや行動力や決断力、そして、一番政治家としての欠点は、「人の話が聞けない。」ことです。
明治天皇の勅命によってつくられ、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針「五箇条のご誓文」を“この人”は読んだ事があるのでしょうか。
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
二 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
三 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
四 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
五 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
であります。
言葉の意味は、皆さんよくご存知の事でしょうから、あえて私は注釈はしませんが、この「五箇条のご誓文」、正に、今の日本国の現状を正し、国民を正道に導き日本古来の伝統ある格式高い民族に立ち返させるためには、是非とも再登場願し、広く日本国民に再認識させるべき「お言葉」であると私は常日頃から考えています事であります。(一部現代に合せて修正しなければならない箇所もありますが。)
また、日本人としての精神的な意識認識の再確認の必要性とともに、大切な“文言”を忘れてはなりません。
この事実を抜きにしては、日本の真の『独立』はありえませんし、米国と対等の立場で世界の桧舞台において、物事を推し進める姿勢が整わないと思っています。
日本国憲法
の自主制定です。
今の憲法を後生大事に背中に背負っていますのは、“亡国の徒”集団です。そして、“平和憲法”の甘い言葉を罠に日本を破滅に導こうと目論んでいます。
今の政治家の“政”を一つ一つ注視してご覧ください。(この判断する「目」を養ってください。『眼力』が大切です。)
国民への選挙活動での訴えは“甘い言葉(甘言を弄し)”を使っていましたが、実際自分達がその政権の座に就いた途端如何ですか、正に“手の平を返したよう”とはこの現象を表す言葉にドンピシャリです。
あれも出来ません、これも出来ません、 ジャ何一体お前たちは出来るんだ。
その答えは“亡国”、“日本国の売り渡し”、“日本解体”です。
この事を彼らは堂々と、政権の座を使ってやってのけています。
一つの例を挙げますと、“北朝鮮問題”です。
前政権から何か進展しました現象がありますか。逆ですね。
“政”の日本の最高責任者が、北と蜜月の如く密着しています現状では、この問題は棚上げ以上に消え去る運命下にあると私は思います。
言えませ-ん、言える筈がありませ-ん、自分達は、“北朝鮮思想”を標榜する敬虔なる信者、信徒ですから。
本家本元の悪口は一切言えませんし、大体彼らにとっては“北朝鮮問題”(拉致の事実)は無いものと思っているのではないでしょうか。
兎に角、明日は「敗戦日」です。屈辱の思い出がまた深く心に蘇ってきます。
明日は、現憲法を深く敬愛する者達は、“歴史事実を捻じ曲げたく”また躍起になって、“平和”や“戦争反対”を日本各地で叫ぶ事でしょう。
でも、再度歴史を良く考え「日本人」としての真実の歴史、特に、昭和史を明日は『心ある日本人』の方々は思い起こしてください。
前大戦「大東亜戦争」は、日本が好んで引き起こした戦争でない事を、事実として再認識する明日は良い機会だと思います。
そして、正午
陸,海,空 に 祖国日本の父,母,妻,子供達の将来のためにと散っていきました『英霊』に黙祷を捧げて下さい。
よろしくお願いいたします。
タグ :敗戦日
Posted by 阿羅漢 at
15:39
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